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アインシュタイン 科学者たちの罪と勇気   

🔬アルバート・アインシュタイン

相対性理論をはじめ数々の偉大な発明を生み出した。
【E=mc²】
この方程式は、少数の物質が大量のエネルギーに変換されることを示している。

💣原爆の父 ロバート・オッペンハイマー

相対性理論は、後輩の科学者達によって磨き上げられついには核というパンドラの箱を開けた。

📈ブラウン運動

ランダムに見える粒子の動きが、計算できることを示した。ブラウン運動に関する数式。
経済学者たちに応用され、金融市場のあり様を一変させた。
金融取引はコンピュータで自動化され爆発的なマネーの傍聴を引き起こして行く。
しかし、巨大化した市場は、時に制御不能とし、世界を深刻な金融危機と突き落とした。

○ アジア通貨危機
○ ロシア財政危機
○ リーマンショック

🇩🇪🇨🇭アインシュタインの生い立ち

スイス、チューリッヒにあるヨーロッパを代表とする理系の大学チューリッヒ工科大学に、ドイツ生まれのあるユダヤ人男性が、物理学を学んでいた。
容姿端麗、頭脳明晰。
しかし、すこぶる生意気で、教授からの評判は悪かった。
大学の研究者を目指していたが、性格が災いしてか、不採用に次ぐ不採用。困窮する姿を見かねた友人(マルセル・グロスマン)が、就職先を紹介してくれた。
それは、ベルンにある。スイスの特許局。特許申請の書類を審査すると言う研究者にしたら退屈な事務処理仕事に思われた。
ところが、新しい発明が、次々と生まれていたこの時代。毎日寄せられる特許の申請は、アインシュタインの脳を大いに刺激。

💣ダイナマイト
💡エジソンの電球発明
✈️ライト兄弟
🚗T型フォードの登場

🎙️アインシュタインの言葉

「特許局での仕事は、とても楽しかった。なぜなら仕事は、想像以上に多様な内容だったからだ。実生活から生まれる疑問に焦点を合わせることで、理論的な概念を物理的にどのように解釈できるのか、調べてみようという興味が湧いてきた。仕事は早々と終わらせ、有り余る時間を好きな研究に没頭して過ごすことができた。1日分の仕事を2〜3時間で終わらせて、残りの時間で科学に関する自分のアイディアを練っていた。科学論文をたくさん書くように教授から強制される大学では、知識が浅はかになる恐れがある。」

特許局で、働き始めて3年後の1905年、のちに奇跡の年と呼ばれるこの年。アインシュタインは、画期的な論文を相次いで発表する。
○ ブラウン運動の数式
○ 光量子仮説
○ 相対性理論

🚀特に注目されたのが相対性理論

原子に莫大なエネルギーが秘められていることを理論化した。
しかし、当時この難解な理論を理解できる人は、世界に10人もいないと言われた。

💡発明王トーマス・エジソンが相対性理論について語る

記者
「アインシュタインの理論についてどう考えますか?」
エジソン
「アインシュタインの理論については何も言えない。全く理解できないからね。」

しかし、この理論は、科学者達に衝撃を与え、実用化に向けた研究が一気に広がっていく。
なかでも、原子から莫大なエネルギーを取り出す原子力研究は、多くの科学者を虜にした。

🎙️ある科学者の言葉

「私達は、偉大な発見の入り口にいると思われる。
我々の子孫は、石炭を燃やす代わりに1オンス(28g)か2オンス(56g)の物質の中からエネルギーを取り出すであろう。」

🎙️科学者フレデリック・ソディの言葉より

「物質をエネルギーに変換できる国は、砂漠の大陸を変貌させたり凍った南極・北極を溶かしたりして全世界を晴れやかなエデンの図にすることができるだろう。」

1914年、第一次世界大戦が勃発した、ちょうどこの年、アインシュタインは、母国ドイツへと戻った。
ベルリン大学に教授として招かれ、充実した研究生活を送る。
ポツダムには通称、アインシュタイン塔と呼ばれる研修施設まで建設された。
その中には、最新の望遠鏡を備え、理論を検証する実験も進められていた。
アインシュタインは、1921年のノーベル物理学賞を受賞し、世界的な名声を手にした。

そして、

最先端の通信技術をアピールするために1930年に開催された第7回大ドイツ放送展・音響ショーの開会式に招かれ、そのスピーチはドイツ全土に生放送された。

🎙️ベルリンで開かれたラジオに関する展示会でのスピーチ

「ここにいる皆様、そしてここにいない皆様、この放送をお聞きならいかに素晴らしい道具を人類が得て、この放送が実現しているかについて思いをはせてください。科学と技術は、多くの困難を乗り越えて今日の発展を遂げました。それを忘れる事は牛が何も考えずに草を食べていることと同じです。真の民主主義を実現させるのも技術の発展なのです。」

時代の寵児となったアインシュタインは、世界各国から講演に招かれるようになる。

🇯🇵日本への訪問

1922年、アインシュタインは、出版社からの招きで日本にも足を運んび、東京大学、早稲田大学で講演を行った。

✉️息子に宛てた手紙より

「日本での旅は素晴らしいものです。お父さんはもう13回もの講演をこなしましたが、日本人はこれまで知り合ったどの国の人よりも、上辺だけでなく全ての物事に対して、物静かで控えめです。知的で芸術好きで、思いやりがあって非常に好感が持てる人たちです。」
と、その時の印象を息子宛の手紙につづっている。

しかし、

次第に母国ドイツでは、不穏な空気が広がっていた。世界恐慌で経済が壊滅的な状況に陥る中、人々の圧倒的な支持を受け、ヒトラー率いるナチスが台頭。
ゲルマン民族の復興を掲げるヒトラーは、「ユダヤ人を有害な人種だ」と公言し、徹底的に弾圧し始める。
ユダヤ系の商店への不買運動が広がり、ユダヤ人は、次々と公職から追放されていった。
攻撃の矛先は、ユダヤ人科学者アインシュタインにも向けられていく。
ユダヤ人が書いた本や非ドイツ的とされた本を焼く焚書も始まりアインシュタインの著書は格好の標的となった。

🎙️アインシュタインの言葉より

「私は今やドイツでは、邪悪な怪物にされてしまった。選択の余地があるのなら市民的自由、寛容、そして全ての市民が法の前で平等であることが、原則である国のみとどまりたい。しかし、こうした条件は、現在のドイツでは満たされていない。」

🇺🇸アメリカに亡命

アインシュタインは、1933年1月アメリカのカルフォルニア州を訪れる。
皮肉なことに、ドイツとアメリカの友好関係を祝う演説をすることが目的だった。
しかし、その帰りの船の中で、思いもよらない知らせが届く。ベルリン近郊の別荘に武器が隠されているという容疑で、ナチスが強制捜査を行ったというのだ。
アインシュタインは、そのまま亡命。二度とドイツの地を踏む事はなかった。

🇬🇧1933年10月 ロンドンでのスピーチ

「1人の人間として、1人のヨーロッパ人として、そして、1人のユダヤ人として、ここに立てる事に深い喜びを感じています。平和を維持するためにはどうすればいいのか。」とドイツから避難した学者たちを支援する集会でアインシュタインが語っている。

⚔️1939年9月第二次世界大戦勃発

ドイツがポーランドに進攻し、第二次世界大戦が始まった。

🧑🏼‍🔬世界各国は、最新の科学技術を導入し、強力な兵器の開発を進める。

○ 巨大列車砲
○ ジェット戦闘機
○ 爆撃機の探知レーダー
○ 原子爆弾

🌍各国の原爆開発

なかでも最新鋭の兵器として注目されたのは、原子のエネルギーを利用する爆弾だった。
アインシュタインの相対性理論が明らかにした原子の力。原子核を分裂させることで莫大なエネルギーが放出される、このエネルギーを利用すれば、強力な爆弾を作り出せると考えられたのだ。
世界各国で、原子爆弾に関する研究が本格化する。
【 E=mc² 】

🇯🇵日本での原爆開発

日本でも、理化学研究所仁科芳雄などが、秘密裏に開発を進めていた。

🇩🇪ドイツでの原爆開発

中でも、研究が最も進んでいると見られていたのが、ドイツだった。世界で初めてウランによる原子炉(ハイガーロッホ研究炉)を建造し、実験も進めていた。更に占領したチェコスロバキアで原料となるウラン鉱山(ボヘミア地方)接収していた。

このままでは、ヒトラーが世界に先駆けて原子爆弾を手にしてしまうのではないか。焦りを募らせたアインシュタインは、時のアメリカ大統領ルーズベルトに書簡を送った。

📮アインシュタインの書簡より

「親愛なるルーズベルト大統領、過去4ヶ月の間に、大量のウランによる核連鎖反応が現実のものとなってきました。これが近い将来成し遂げるのは、確実なことあると思われます。アメリカ政府も核分裂を研究している物理学者と緊密に連携をとり、研究を過疎来させることを検討ください。」

フランクリン・ルーズベルト アメリカ大統領
ルーズベルトは、アインシュタインの進言を受け入れ原子爆弾の開発に着手する。

📩ルーズベルト大統領の返信により

「親愛な教授、あなたの報告は誠に重要だと認識します。政府及び陸海軍の中枢で会議を開きウラン原子に関するあなたの提案を十分に検討します。」

しかし、

ドイツ陸軍は原子爆弾の開発を進めてはいなかった。
ドイツが密かに開発していた新兵器は、弾道ミサイル、V2ロケットだった。
ヒトラーは、原子爆弾をユダヤ人アインシュタインの研究から始まったユダヤ的科学と捉えて忌み嫌っていたと言われる。

📝マンハッタン計画

1943年、アメリカ、テネシー州の原野に突如巨大な街が築かれた。目的はほとんどの人に知らされないまま、最盛期には7万5000人もの人々が働いていた。
街建設の目的は原子爆弾の開発。
全米各地で勧められていた。極秘プロジェクトは、マンハッタン計画と名付けられた。
国中から10万人に登る科学者と技術者が集められた。ナチスの迫害を逃れるたユダヤ人も多数参加していた。プロジェクトのリーダーを務めたのは、宇宙物理学者のロバート・オッペンハイマー。相対性理論を発展させた、天体やブラックホールの研究で注目を集め、30代の若さで抜擢された。彼もまたドイツから移住したユダヤ人の息子だった。

🎙️オッペンハイマーの言葉より

「誰もが、原爆開発の企ての偉大さをわかっていました。また、祖国の利益のために、自分たちの基礎知識を科学技術に集中できるチャンスだと考えていました。成功性は、歴史に残るこのことが科学者たちを奮い立たせ献身を促し、何よりも愛国心が私たちを突き動かしていました。」

そして、

1945年5月ドイツが降伏した。
アインシュタインが懸念していた。原子爆弾の開発はドイツでは行われていなかったことをアメリカは知る。
それでもアメリカは核開発を止める事はできなかった。

💣7月16日原子爆弾完成

7月16日ついに原子爆弾が完成し、人類初の核実験が行わる。いわゆるトリニティ実験だ。実験の直線オッペンハイマーは自ら爆弾の最終点検を行い、失敗が許されない極度のプレッシャーのなか3年あまりで完成させた。オッペンハイマーは実験に参加していた科学者の弟とともに8キロほど離れたとこで、爆発の瞬間を見守っていた。

1945年7月16日午前5時29分 実験開始…

🎙️弟フランク・オッペンハイマーの言葉より

「爆弾が落とされたとき、私は何かが起こる事はわかっていたはずなのに、5マイル先の閃光の熱があれほど強烈だと思っていませんでした。不屈な雲が私たちの上にのしかかっているようでした。爆風による雷は岩で反響し続けていました。止むことなくずっと鳴り続けていて、通常の雷ではありませんでした。本当に怖かったです。」

その3週間後、

原子爆弾を積んだB29が向かった先は日本だった…

広島では、ウラン型の爆弾で14万人。
長崎では、プルトニウム型の爆弾で7万人の尊い命が奪われた…

オッペンハイマーは、戦争を終結させた。功労者としてアメリカ国民から最大級の賛辞が送られた。

しかし、

広島と、長崎の惨状を知ったオッペンハイマーは、次第に激しい後悔の念に囚われるようになる…

🧑🏼‍🔬オッペンハイマーの言葉より

「世界はもう元に戻らないヒンドゥー教の教典の一節を思い出しました。今私は死神となり世界の破壊者になった…」
と晩年、自らの開発を振り返ってこう語った。

🟥ソビエト

第二次世界戦が集結しても、核開発競争は終わらなかった。世界は米ソが核の脅威を突きつけ合う冷戦へと突入する。
戦後、アメリカで研究活動を続けていたアインシュタインは、核の恐怖に覆われた世界を目の当たりにし、自責の念にさいなまれるようになった。

🎙️アインシュタインの言葉より

「私は人生で大きな間違いを一つ犯しました。原子爆弾を作るようルーズベルト大統領に進める手紙に署名したことです。ドイツが原子爆弾の製造に成功しないと知っていたならば、私は指一本動かさなかったでしょう。」

アインシュタインは世界に向けて核兵器の排泄を訴えるようになった。

🎙️1950年に、アメリカの番組に出演したときコメントより

「未来の紛争を想定して行動している限り、平和は実現不能です。大量破壊兵器に限らず、断固として暴力を放棄することが絶対に必要です。」

しかし、

当時、アメリカでは、ソビエトの脅威に対抗するために国民から核は支持されていた。
反対するものには、共産主義者のレッテルが貼られ厳しい目が向けられた。
アインシュタインも、秘密裏にFBIの監視下に置かれ、市民権の取り消しを視野に入れられた調査まで行われていた。
そんな中、アインシュタインの元を一人の日本人科学者が訪ねた。
中間子論により日本で初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹だった。

🤝アインシュタインと湯川秀樹の出会い

アインシュタインは湯川の手を握り、
「日本人を殺すことになり、申し訳ないと涙を流した」と言う。

だが、

実は湯川自身も原子爆弾の開発にはじくじたる思いを描いていた。
湯川の中間子論は欠かせない原子力研究に欠かせない基本理論の一つだった。
さらに湯川の死後に日記も公開された、新たな事実も明らかになった。
ここの日記に記されたF研究という言葉、これは戦時中、海軍からの依頼で京都帝国大学の物理学者が進めていた原爆研究を意味する。
湯川もこの研究開発に参加していた。
湯川もまたアインシュタインと同じ様に原子力研究の一端を担った責任を感じる様になっていたのだ。

🎙️湯川の言葉より

「真理を探求すると言う事は、これは結局は人類のためのものである。そういう風に単純素朴にずっと考えてきて、それで間違いないと思っていたのだが、がらりと変わっちゃったんですよ。私たちのような世間離れした学問をしているものでも、社会に対して責任があると、そういう責任から逃れることはできない。」

しかし、

科学者たちの思いと裏腹にアメリカの核開発は進んでいく。

1952年に水素爆弾の実験に世界で初めて成功する。その威力は広島に落とされた原爆の625倍にものぼった。
マンハッタン計画の責任者であったオッペンハイマー
戦後は、原爆開発方針を決める原子力委員会のアドバイザーを務めていた。

しかし、

水爆など更なる核開発には、断固として反対していた。

🎙️オッペンハイマーの言葉より

「原爆に対抗できる手段があるかどうか尋ねられました。そんな希望を持っている根拠はありません。誠実と信頼を持って世界中の人々と協力することが私たちの将来の安全につながる唯一の手段です。」

オッペンハイマーもまた、共産主義者の摘発、赤狩りの対象となっていく。

🎙️ジョセフマッカーシー上院議員の言葉より

「上記の供述は、オッペンハイマーが共産主義者であることを示している。彼が共産主義者に仕事を紹介した可能性もある。原子爆弾水素爆弾の開発について、共産主義者に対する懸念は排除できない。」

👮‍♂️1954年 オッペンハイマー公職追放

1954年、オッペンハイマーは公職から追放され、原子力委員会のアドバイザーから解任された。所長を務めていた研究所からも追放せよと言う声も上がるが、アインシュタイン達が猛反対し、かろうじて職は保たれた。

🔬アインシュタインの死

1955年4月18日に、76歳にしてプリンストン病院で、アインシュタインが世を去った。本人の意思により、葬儀は家族と友人のみで行われ、位牌は川に散骨された。
枕元には、数日後に、講演に向け書きかけた原稿が残されていた。

📝アインシュタインの原稿より

「政治家は、優れた軍事力を備えることで相手を脅す。こうした戦略は、戦争と破壊を引き起こす可能性があるにもかかわらず、ある権力闘争に現代は原子力研究の発展がおぞましい亡霊のようにつきまとう。現実に戦争が起きれば、人類は破壊するだろう。」

アインシュタインの訃報に接したオッペンハイマーは、偉大な科学者の死に、哀悼の意を示した。

🎙️オッペンハイマーのスピーチより

「アインシュタインは現在の物理の基礎を作った人物です。彼は様々なことを成し遂げ、暗雲を掘り進め明かりをともしました。彼の魂は我々と共にあります。」
と1958年ワシントンでの公演でスピーチしています。

アインシュタインの意思を受け継ぎオッペンハイマーは、その後も、生涯をかけて、核の脅威に警鐘を鳴らし続けた。

🎙️オッペンハイマーのスピーチより

「危険性に関する考えは、決して大げさではない。3億人もの死者が出る可能性があることを米議会委員会へ提言した。科学技術の進歩がより巨大な戦争に近づいていくと我々は考えている。」

平和を謳う科学者同士の連帯は日本にも広がる。
湯川秀樹は、アインシュタインの死の直前、一通の手紙を受け取っていた。

📮湯川に届いた書簡より

「核兵器の廃絶を目指す」

世界の科学者たちの共同宣言への協力を呼びかけるものだった。

🇯🇵1975年 京都 パグウォッシュ会議

その宣言に基づき始まったのがパグウォッシュ会議。
東西両陣営の科学者たちが参加していた。
日本で初めて開かれたとき、開会の演説を託されたのが湯川だった。病に倒れながらも、医師の反対を仕切って参加、執念で核の廃絶を訴えかけた。

🎙️湯川秀樹のスピーチより

「核抑止論にとらわれている限り、核が止めどなく広がるのは明らかです。」

パグウォッシュ会議は後にノーベル平和賞を受賞。今も世界の科学者によって活動が受け継がれている。

📈ブラウン運動

1905年にアインシュタインが発表した。数々の論文、その中に、もう一つ世界を一変させた理論が、運動に関する数式だ。
水に落ちたインクなど、小さな粒子の動きは、ランダムに見えても、規則性はあり予測できることを証明した。この数式が意外な分野で革命を起こし、世界を大きく揺さぶることになる。
1970年代初頭、経済学に数学を融合させる最先端の研究が行われていたマサチューセッツ工科大学、ここで金融モデルの数理モデルを研究を進めていたのが、経済学者のマイロン・ショールズだった。
ショールズは数学とともに、1973年に、画期的な論文を発表する。
株価の変動を予測し、リスクを下げる最適な投資家を導く理論を構築、後にブラックショールズ方程式と呼ばれる数式を編み出した。
この方程式を作り出す上でブレイクスルーをもたらしたのが70年前のアインシュタインの数式だ。

🎙️マイロン・ショールズの言葉より

『アインシュタインは、「コーヒーカップの中で、コーヒーの粒子があっちこっちに飛び回る様子を理解すれば、熱がどのように伝わるかがわかる。」と言っていました。コーヒーの粒子と様々な動きをする株価は同じようなものだと私たちは考えたのです。』

アインシュタインは、ブラウン運動の数式でランダムに見える粒子の動きを計算できることを示した。
ショールズは、粒子と同じように、株価の値動きも予測可能で、最適な投資額を計算できると考えた。

🎙️ショールズの言葉より

「これはある種の純粋な科学の結晶なのです。パズルを解くツールを手に入れたようなものです。パズルを解けば宝石の中身がわかるので、宝石の中を見てるような気持ちでワクワクしました。」

ブラックショールズ方程式は、金融市場のあり方を根本から変えることになる。
これは方程式を組み込んだ電卓。株価や金利などを入力すると、自動的に最適な投資額をはじき出してくれると言うもの。
この方程式をきっかけに、コンピューターによる金融取引の自動化が加速、様々な金融も開発され、実体経済を超えるマネー革命の時代をむかえる。

🎙️金融従事者のコメントより

「計算機に組み込まれたブラックショールズ方程式で常にリスクが計算できます。」

ショールズは、金融市場への貢献により、ノーベル経済学賞を受賞した。

そして、

自らの理論を実際の金融市場へ試そうと投資ファンドLTCMに参加する。
LTCMにはショールズの他にも、FRBの元副議長や有名トレーダーなど精鋭が揃い、ウォール街のドリームチームと呼ばれた。
ここでショールズは、自らの方程式を応用して、様々な金融商品を考え出す。
世界中から投資を集めて一時は17兆円にのぼる資産を運用し、年間の利回りが40%を超える実績を誇っていた。

🎙️ショールズのコメントより

「問題はリスクを正しく認識しているかどうかです。リスクを回避できる金融商品はこれからも発展し続けるでしょう。」

しかし、

ドリームチームの反映は長くは続かなかった。
1998年LTCMが多額の金を流し込んでいた。ロシアが財政破綻の危機に直面する。
ロシアだけでなく新興国から資金の流出が相次ぎ、世界経済は深刻な打撃を受けた。
天才たちのファンドが、まさかの破綻。
リスクは予測できると豪語していたLTCMがこの時代を読み切ることができなかった。
巨大な損失を抱え破綻した17兆円もの投資を集めていた。LTCMの破綻は、金融機関だけでなく、一般の投資家たちにも多大な損失を与えた。

👨🏻‍💼LTCMの破綻を伝えるニュース

「まさに金融業界のタイタニックです。巨大な投資ファンド、LTCMが2億7000万人のアメリカ人を危険にさらしました。アメリカだけでなく、他国の経済にも悪影響を与えるところでした。賢い人たちが罠を仕掛けるのです。」

📉2008年 リーマンショック

その後過ちは繰り返される。
様々な金融テクニックが、編み出されたがリスクをコントロールすることなどできなかった。
かつてない地球規模の金融危機です。危機のたびに同じ光景が繰り返される。

🎙️リーマンブラザーズCEOリチャード・ファルドの言葉より

「もし戻れるなら、同じ街は繰り返しません」

しかし、ショールズたちが築いたマネー革命の潮流は、もう後戻りする事は無い。
金融市場では、AIが主流になり、もはや人間の出る幕は無い。
世界の金融資産は、実体経済を上回るスピードで成長この10年でおよそ2倍250兆ドルに膨れ上がる。
今もショールズは、投資の世界に身を置いているリスクをコントロールする。万能の方程式を探し続けている。

🎙️ショールズのコメントより

「リスクをコントロールする方法は、まだまだ未発見です。それが見つかれば、大きな利益を得られるのですが、実際にはまだ膨大な研究開発が必要です。」

🎞️最後に

核の脅威もまた、世界を覆い続けている。世界が核のない平和の世の中を願い続けても、核兵器の進化は止まらない。
臨海実験核爆発をさせず、爆弾の性能を確かめることができる装置も開発され、性能向上を図ろうとしている。
現在の過去保有国は、全世界には13,000を超える核兵器があると言われている。

アインシュタインがスイス、ベルンで生み出した。数々の理論や数式それはこの世界を確実に豊かにした。
しかし、科学が発展すればするほど、不安の種も増えた。第二次世界大戦の最中アインシュタインはこんな言葉を残している。

🎙️アインシュタインの言葉より

「心理と知識を探求する事は、人間性の中で最も価値のあるものの一つです。しかし私たちは知性を神格化しないよう十分に注意しなければいけません。知性はもちろん強大な力持っていますが、人格を持っているわけではありません知性は人間を導くことはできず、あくまで人間に使えるものなのです。人間が存在するために、最も重要な事は、破壊的な本能を遠ざけるようたゆまの努力を続けることです。」





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