3.平安京の時代
聖武天皇と政界の動揺
8世紀初めには、皇族や中央の有力貴族の間の勢力の均衡がよく保たれ、その協力の下に律令政治が運営された。しかし、社会の変動が進むとともに、藤原氏の進出とも相応じて、政界には次第に動揺が高まった。
藤原鎌足の子不比等は、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏の発展の基礎を固めた。不比等の死後も、その4子は引き続いて勢力をふるい、729(天平元)年には豪族の左大臣長屋王を策謀によって自殺させ(長屋王の変)、不比等の娘の光明子を聖武天皇の皇后に立てることに成功した❶。しかし、この頃流行した疫病のため、4子は相次いで世を去った。
藤原4子の死後は、皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した玄昉や吉備真備が、聖武天皇の信任を得て勢いを振るった。しかし、飢饉や疫病による社会の動揺が激しくなり、740(天平12)年には、藤原広嗣が玄昉・真備の追放を求めて九州で乱を起こし(藤原広嗣の乱)。乱が平定されたのちも朝廷の動揺は収まらず、聖武天皇はそれから数年の間、恭仁・難波・紫香楽と都を移した。
こうした情勢の下で、かねて熱く仏教を信仰していた聖武天皇は、仏教の鎮護国家の思想によって政治や社会の不安を鎮めようと考え、741(天平13)年には、国分建立の詔を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てて金光明経など護国の経典を読ませた。更に743(天平15)年には大仏建立の詔を発して、近江の紫香楽で金銅の盧舎那仏の造立を始めた。この事業は京都が平城京に戻ると奈良に移され、孝謙天皇の755(天平勝宝4)年には東大寺の大仏の開眼供養の儀式が盛大に行われた。
聖武天皇が退位したのちは、光明皇太后(光明子)の下で、その甥にあたる藤原仲麻呂が権威を振るった。仲麻呂は反対派の橘諸兄の子奈良麻呂らを倒し(橘奈良麻呂の変)、淳仁天皇から恵美押勝の名を賜って専制的な政治を行った。
その後、孝謙上皇は、再び位について称徳天皇となり、道鏡はその下で太政大臣禅師となり、ついで法王の称号を得て権威を振るった。
この間、皇位の継承をめぐって皇族や貴族の争いが続き❷、また、宮殿や寺院の造営によって国家の財政も大きく乱れた。このため、藤原氏などの貴族は、称徳天皇が死去すると道鏡を追放し、新たに天智天皇の孫にあたる光仁天皇をたて、律令政治の再建に勤めた。
新しい土地政策
8世紀には律令政治の展開に伴い、社会の基礎的な産業である農業も進歩し、鉄製の農具が一層普及した。農民の生活にも変化が起こり、それまでの竪穴住居に代わって、平地式の掘立柱の住居が西日本から普及し始めた❸。
農民は、国家から与えられた口分田を耕作する他、口分田以外の公有の田(乗田)を国家から借り、それを耕作した❸。
しかし、農民にとって、調・庸の都への運搬(運脚)や雑徭などの労役の負担はことに厳しく、彼らは農作業に必要な時間まで奪われ、生活に余裕がなかった。天候の不順や虫害などのために、飢饉が起こりやすく、僅かなことでも生計が成り立たなくなることも多かった。
このような事情から、生活の苦しい農民の中には、口分田を捨て、戸籍に登録された土地を離れ他国に浮浪したり、都の造営工場の現場などから逃亡したりして、地方豪族など元に身寄せ、律令制の支配を逃れるものが増えた。有力な農民も、僧侶になったり、貴族の従者になるなどして税金の負担を免れようとした。こうした8世紀の末には、調・庸の滞納や品質の低下、兵士の弱体化などが目立ち、国家の財政や軍備にも多く影響を及ぼすようになった。
人口の増加に対して口分田が不足してきたためもあって、政府は田地の拡大を図り、722(養老6)年には百万町歩の開墾計画を立て、翌723(養老7)年には三世一身法を施行して、農民に開墾を奨励した。三世一身法は、新しく灌漑施設を作って耕地を開いたものには、三世の間、旧来の灌漑施設を利用したものについては、本人一代に限り、その田地の保有を認めるものであった。更に743(天平15)年には、政府は墾田永年私財法を発布し、開墾した土地は、定められた面積に限って永久に私有することを認めた❹。
この政策は、登録された田地を増やす事によって土地に対する政府の支配を強める効果があったが、反面、実際に土地を開墾できる能力を持つ貴族や寺院、地方豪族などの私有地拡大の動きを刺激することにもなった。ことに東大寺などの大寺院は広大な原野を独占し、国司や郡司の協力を得、付近の農民や浮浪人などを使って大規模な開墾を行った。これを初期荘園と呼ぶ❺。