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序章 文明の起源

人類の出現

人類が他の動物ともっとも大きく違う点は,道具を使って労働し,生産活動をいとなむことである。
人類は両足で直立し,自由になった手で道具を使って自然に働きかけ,長年月のあいだに高度で複雑な文明をきずきあげた。

歴史の研究は,この文明の発展のあとを,おもに文字の記録によりながらたどる学問であるが,人類が記録を残すようになる以前には,数百万年におよぶ長い先史時代が続いた。 最古の人類(猿人)がはじめて出現したのは,今から約700万年前のアフリカであった。約240万年前には原人とよばれるかなり進んだ人類があらわれ,さらに約60万年前,より進化した旧人が出現した。この長期のあいだに,寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期とが数回くりかえされ,きわめてゆるやかではあったが,人類の脳容積はしだいに大きくなり,生活も着実に進歩した。この時期の人類は,洞穴や岩かげに住み,採集や狩猟によって生活し,打製石器(旧石器)を使用した。また長い経験をとおして,動物の骨や角でつくった骨角器や火の使用もおぼえ,死者の埋葬などの宗教的な風習もめばえてきた。これらの人類は,現在の人類(現生人類)と異なる種に属し,化石人類と総称されている。 現生人類(新人)は約20万年前に出現した。

彼らは石刃や鏃などのするどい石器をつくり,投槍や弓矢を使用した。骨角器もや釣針に利用され,狩猟や漁労の獲物が増大した。彼らが獲物の多いことをねがって洞穴の壁などに描いた動物や狩猟の絵画は,人類最古の芸術品でもある。このように打製石器を使って採集・狩猟をおこなった時期を旧石器時代とよぶ。 1万年前頃から気候が温暖にむかい,海陸や動植物の分布が現在に近い状態にかわってきた。人類はこの新しい環境に適応しようと努力し,その結果磨製石器(新石器)の使用や犬の家畜化がはじまり,生活はさらに進歩した。

洞窟絵画
フランス西南部のラスコー洞窟絵画やショーヴェ洞窟絵画,スペインのアルタミラ洞窟絵画,アルジェリアのタッシリ・ナジェール洞窟絵画などには,旧石器時代の人類が描いた岩絵が残されている。これらの岩絵を描いた人びとは狩猟採集民で,野生動物を追いかけたり,植物を採集したりと,自然の恵みをもらって生きていた。その彼らがなぜ岩絵を描いたのか,その理由は明確ではない。現代人が考えるような芸術行為ではないにしても,人間が初めて他の動物とは異なった行動をとった点に大きな意義をもっている。

スペインのアルタミラ洞窟絵画の場合,迷い犬を探していた猟師が地下に通じる狭い入口を発見したことが,岩絵の発見につながった。20頭以上の野生牛,馬、鹿,イノシシなどの動物が描かれ,場所によっては人間や記号,線のようなものもみられる。
フランスのラスコー洞窟絵画の場合は,4人の少年が渓谷で迷子になった犬を探していて,小さな穴をみつけ,その穴を広げて洞窟内部の動物の壁画を発見した。このあと専門家が調査して旧石器時代のものであることが明らかになった。その数は600点余の絵,1500点余の彫刻からなり,野生牛,家畜牛,鹿などが,色をかえて描かれている。  
フランス南部のショーヴェ洞窟(ショーヴェは発見した学者の名前)では,260点の動物画がみつかっており,その総数は300点をこえるとみられている。描かれている動物は,野生牛,馬,サイ,ライオンなど13種類あり,そのなかにはフクロウやハイエナやヒョウやマンモスなど,珍しい動物が描かれている。
アルジェリアのタッシリ・ナジェールの場合は,偵察していたフランス軍のラクダ部隊が岩絵の存在を報告したのがきっかけで,その後専門家が調査にはいって分析が進み,主題によって四つの時期に分類され,それぞれがサハラの気候変動を反映していることが明らかにされた。すなわち,初期の岩絵(前8000~前4000年頃)は緑が豊かな環境であったことを示し,紀元前後以降の岩絵からは,馬での往来が不可能なほど乾燥化が進行したことが示されている。

農耕・牧畜の開始

 人類が農耕や牧畜生活にはいったことは,自然を積極的に利用して,自力で食糧生産をはじめたことを意味し,人類の進歩にとって画期的なことであった。  最初の農耕・牧畜生活は,西アジアからはじまった。地中海東岸から北イラク・イラン西部にかけての地域には,野生の麦類や,家畜として飼うのに適した野生のヤギ・羊・豚などが存在した。そのため西アジアの人びとは,この有利な条件を利用して,前9000年頃から他にさきがけて,麦の栽培と食肉用の家畜の飼育をはじめるようになった。また磨製石器とともに土器や織物をつくり,土や日干し煉瓦の小屋をたて,集落を形成した。こうした農耕・牧畜とともにはじまる新しい時代を新石器時代といい,この大きな変化を新石器革命ともよぶ。以来今日まで,人類の生存は基本的に農耕・牧畜にささえられてきたのである。

農耕の起源

西アジアでは約1万1500年前頃から、住居が洞窟ではなく地上にもつくられるようになり、約9000年前から麦の栽培とヤギ・羊・ 牛などの飼育がはじまった。少し時代はくだるが、西アジアのほかにも世界の各地で農耕と牧畜がはじまった。遅くとも 8000年前までには、中国の黄河流域ではアワとキビ、長江流域 ではイネが栽培されるようになった。中央アメリカでは9000年前にカボチャやヘチマが栽培され、さらにトウモロコシもつくられるようになった。このほか、東南アジアや西アフリカなどでも独自にその地に適した植物の栽培がはじまった。
その最初のきっかけは、約1万4000年前頃に地球の寒冷期がおわり、温暖化がはじまったことであった。この気候変動により動植物の生息域が大きく変動した結果、繁茂する植物がある一方で、大型の動物のように移動を余儀な くされるなかで絶滅にむかう生物もいた。
しかし、1万2000年前頃にもう一度急激な寒冷期が到来すると、野生の有用植物の分布域が縮小し、人びとは食料不足に陥ったようである。そしてその際、西南アジアでは定住化傾向を強めていた人びとが、利用していた野生の植物をみずから植えて栽培をはじめたとされる。
つまり、農耕を主とした食料生産のはじまりは、後氷期の変化する環境への対応の結果としてうまれたのである。新しい環境への適応として、野生の食用植物を季節的に集中利用する生業形態を選択したところで農耕の道が開かれた。
農耕の起源については乾燥によって人間・動物のオアシスへの集中が進み、人間と動植物との共生関係ができあがったとするオアシス起源説、河川流域でくらすうちに植生に詳しくなって栽培がはじまったとする河川流域起源説、人口増加によって中央から周縁に流出した人びとが、野生資源の少ない土地で同レベルの生活を保つために栽培をはじめ、それがやがて中央へ帰るという周縁起源説などがある。

社会の発達

初期の農耕は、自然の雨にたよるだけで、肥料をほどこさない略奪農法であったから、人びとは頻繁に移動する必要があり、集落も小規模であった。しかし大河を利用する灌漑農法に進むにつれて、生産は増加し人口も増大した。
また大河の治水・灌漑には多数の人びとの協力が必要なため、集落の規模は大きくなり、やがて都市が形成されていった。
こうした過程とともに社会は次第に複雑になった。もともと集落は、同じ血縁であるという意識で結ばれた氏族を単位としていたが、生産が増え、分業が進むと、その内部に貧富や強弱の差がうまれた。
この変化は、金属器の使用の開始によってさらに促された。

そして神殿を中心に、城壁をめぐらした都市国家が成立した。生産にたずさわらない神官や戦土は貴族階級となり、そのなかから王がでて一般の平民を支配し、征服された人びとは奴隷とされて階級と国家がうまれた。また都市国家では、神殿や玉への貢納や交易の記録に用いた記号から文字が発達した。このような文明の進歩は、前1500年頃はじまった鉄器の使用により、ますます急速に進むのである。

文明の諸中心

前3000~前2700年頃。農耕文化は、ティグリス川ユーフラテス川流域に多くの都市国家を生み出し、ナイル川流域でも前3000年頃統一国家がうまれた。このオリエントの文明は東西に伝わり、西方ではエーゲ文明の発生を促し、東インドでも前2600年頃インダス川流域に青銅器をもつ都市国家が成立した。
また、前6000年頃までに、黄河の流域ではアワなどの雑穀を中心として、また長江の流域では稲を中心として、粗放な農耕がはじまっていた。中国大陸北部の黄河流域の黄土地帯では、前5千年紀(前 5000~前4001年)に磨製石斧と彩文土器(彩陶)を特色とする農耕文化がおこった。前3千年紀には大集落の都市が形成され、黒色の三足土器(黒陶)や灰色の土器(灰陶)が盛んに使用された。
なお、アメリカ大陸では、ベーリング海峡を渡って移動したアジア系の人びとが、前1000年頃からオリエントに似た古代文明をつくった。

人種と民族・語族

人類は新石器時代にはいるころから、その居住環境によって身体の特徴の違いがはっきり現れてきた。人類を身体の特徴によって類する場合に、それを人種という。現代の人種はほぼ3種(モンゴロイドコーカソイドネグロイド)にわけようとする考え方がある。しかしこれらは、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)という同一の種に属し、根本的になんらの相違もない。
人類を分類する場合に、民族という言葉を用いることもある。これは主として言語や、また社会・経済生活や習俗、すなわち広い意味での文化で分類するときに使う。一方で共通の言語からうまれた同系統の言語グループを語族とよぶ。

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