③貴族政治と国風文化3-1
3.荘園と武士
国司の地方支配
「延喜・天暦の治」と謳われ、のちに天皇親政の理想的時代と称えられた10世紀初めは、実は律令体制の変質と崩壊がはっきりし始めた時代であった。律令による支配体制が崩れるのを防ぐため、政府は、902(延喜2)年、一連の法令を出して法に背く荘園の停止を命じたり(延喜の荘園整理令)、班田の励行を図ったりして、令制の再建を目指した。しかし、この実施過程で、もはや律令制の原則では、財政を維持する事が不可能になっている事がわかった❶。
そこで、政府はまもなく方針を転換し、国司に一定額の税の納入を請け負わせて、一国内の統治を委ねる方針をとり始めた。これまでは中央政府の監督の下で国司が行政にあたり、租税の徴収や文書の作成などの実務は郡司が行ってきたが、これを大きく転換した事で、地方政治の運営に国司の果たす役割は大きくなった❷。
国司は有力農民(田堵)に、一定の期間を限って田地の耕作を請け負わせ、かつての租・調・庸・公水挙利稲や雑徭などの税・労役に見合う額の官物・臨時雑役などの負担を課すようになった。課税の対象となる田地は、名と言う徴税単位に分けられ、それぞれの名には、負名と呼ばれる請負人の名がつけられた。田堵の中には、国司と結んで勢力を拡大して、ますます大規模な経営を行い、大名田堵と呼ばれるものも多く現れた。
こうして戸籍に記載された成年男子を中心に課税する律令的支配の原則は崩れ、有力農民の経営する名と呼ばれる土地を基礎に課税する支配体制ができていった❸。
徴税請負人の性格を強めた国司は、やがて課税率をある程度自由に決める事ができるようになったため、私服を肥やし巨利をあげる国司が現れ、その地位は利権視された。成功と言って、私財を出して朝廷の儀式や寺社の造営などを助け、その代償として、国司などの官職を得ることや同じ国の国司に再任される重任も行われるようになった。
地方で支配に当たっていた国司は、やがて現地に赴任しないで、京に住み、代わりに目代を国衙に派遣して国司として収入を得るようになった。これを遙任と呼ぶ❹。
一方、任国に越任した国司のうち最上席の長(多くは国守)は受領と呼ばれ、巨利を上げるため強欲なものが多かったので❺、郡司や有力農民から暴政を訴えられる場合がしばしばあった。988(永延2)年の「尾張国郡司百姓等解」(尾張国解文)によって訴えられた藤原元命は、この一例である。
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