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宇宙への挑戦 夢と悪夢 天才たちの頭脳戦
▶️はじめに
150年前に書かれたジュール・ヴェルヌの「月世界旅行」は人々に宇宙への夢を駆り立て、東西冷戦下で米ソ、二人の天才科学者の戦いが繰り広げられる。第二次世界大戦でヒトラーのために恐怖のミサイルを生み出し、戦後はアメリカに渡ってアポロ計画を指揮したフォン・ブラウン。ソ連のロケット開発責任者として人類初の有人飛行を成功させながら、世界にその存在を隠され続けた謎の英雄コロリョフ。人類の夢への挑戦の物語である。
宇宙に浮かぶ、国際宇宙ステーションや人工衛星。
2008年国際宇宙ステーションに一冊の本が届けられた。
🚀ジュール・べルヌ作 月世界宇宙旅行
150年前に書かれた、このSF小説が人々を宇宙への夢に駆り立てた。
ベルヌの小説の虜になった人、ドイツの科学者フォン・ブラウン。ロケット開発の場を求めて、ナチスに入党。戦犯を免れ、戦後はアメリカに渡りアポロ計画を指揮した。
🎙️フォン・ブラウンのコメントより
「アームストロングが月面に降り立った瞬間、私の人生は、頂点を迎えた。」
一方、
アメリカと激しくしのぎを削るソ連には、生涯その存在を隠され続けた英雄がいた。
その名は、コロリョフ。
2人の天才科学者の頭脳と執念が、国家を動かし、宇宙開発を飛躍的に進歩させた。
1900年代初頭のフランス。20世紀、飛行船や鉄道が登場し、科学技術が花開いた。
📝フランスの作家ジュール・ヴェルヌ
できたばかりの映画館で、一本の映画が公開された。
世界初のSF映画、「月世界旅行」
人間が巨大な大砲になって月を目指す物語である。
見た事もない月の風景は、観客を熱狂させた。
原作となった小説を書いたのはフランスの作家ジュール・ヴェルヌ。
「十五少年漂流」、「海底二万マイル」を書いたベストセラー作家である。
その小説の魅力は、最先端の科学を巧みに取り入れた事にある。
月世界旅行の創作ノートには、
「地球の重力を脱するのに必要な速度は?」
「月まで何日かかるのか?」
など端々に計算式が書き込まれている。
🎙️ヴェルヌの言葉より
「私は現実とは思えないことを色々と思い浮かべた。しかし、人間が想像できるものは、いつか必ず誰かが実現できる。」
月世界旅行は、若者を宇宙への夢に駆り立て、実際にロケットを作ろうとするものが、世界各地に現れた。
🇺🇸アメリカ
アメリカでは、世界で初めて、火薬ではなく、液体燃料によるロケットが作られた。
達した高度は、わずか12mだったが、宇宙への第一歩が刻まれた瞬間だった。
🇩🇪ドイツ
最も大きなロケットが起きたのは、1920年代のドイツだった。
ロケットエンジンを搭載された車、ロケットカーも作られた。
「最高時速 230㎞/h」
大手自動車会社オペルの協力で製造された。
また、
ロケット列車、ロケットそり、ロケットアイススケートまで登場した。
🇩🇪ドイツ宇宙旅行協会
1927年、宇宙旅行を目指す研究者が集まるドイツ宇宙旅行協会が設立された。
当初7人だった会員は、わずか一年で500人に膨れ上がった。
アマチュアながら、手作りのロケットで、高度1600mを記録した。その中に人一倍、宇宙への情熱をたぎらせる18歳の大学生がいた。フォン・ブラウン、彼もまた、ヴェルヌの月世界旅行を読んでいた。
🎙️ヴェルナー・フォン・ブラウンの言葉より
「私は、数学が苦手で留年するほどだった。だが、宇宙ロケットを作るためには、数学や物理学が必要だとわかり、もう勉強を始めた。私は本当に月に行きたかったのだ。」
フォン・ブラウンは、当時封切られた一本の映画「1929年 月世界の女」を観て、さらに宇宙熱を高めた。
この映画はドイツで大ヒットした本格的なSF映画である。
この映画がきっかけで広まったのが、発射前のカウントダウン。
多段式ロケット、宇宙服など、未来を先取りした映画にフォン・ブラウンは夢中になった。
宇宙旅行協会に入会すると優れた頭脳と溢れる情熱で中心メンバーとなった。
この頃、
ドイツではナチスが急速に勢力を拡大していた。若者たちが抱いた宇宙の夢は国家の野望に飲み込まれてゆく。
ロケットとミサイルは原理的には、ほとんど同じ。
宇宙空間をそのまま飛び続けるか、敵地に落下するかの違いである。
第一次世界大戦に敗れ、兵器開発を制限されていたドイツは、新技術ロケットに活路を見出しのだった。
ドイツ陸軍は、宇宙旅行協会に資金援助を申し出てミサイル開発を打診する。
だが、メンバーは兵器開発を拒否した。
しかし、ただ1人、フォン・ブラウンだけが、申し出を受け入れた。
🎙️フォン・ブラウンの言葉より
「おもちゃのような液体燃料ロケットを宇宙まで打ち上げられる本格的な機械するために莫大な資金が必要なのだ。陸軍の資金は、宇宙旅行に向けるための唯一の希望だった。」
🏭1937年 ベーネミュンデ陸軍兵器実験場設立
1937年、ミサイル開発を専門とするベーネミュンデ陸軍兵器実験場がつくられた。
フォン・ブラウンは、25歳の若さで技術責任者に就任した。ミサイル実験の際には、自身も積極的に実験に参加した。
⚔️1939年 第二次世界大戦勃発
ナチスドイツは、ポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発する。
ドイツ軍は射程距離270㎞を超える強力なミサイル開発をフォン・ブラウンに求めた。
しかし、
開発は難航した。
出力の大きいエンジンの制御が難しく、数十回渡って失敗。
ついには、開発資金が削減される事態にもなった。
一件を案じたフォン・ブラウンは、ヒトラーの元を訪れた。
成功こうした実験のみをまとめた映像をヒトラーに見せ、開発の継続を訴えてた。
🎞️この時の映像のナレーションより
フォン・ブラウンは自らスクリーンの横に立ち、ナレーションを読んだ。
「ロケットを発射台に移します。輸送車で運搬すれば、どこからでも発射できます。重量4.5tのロケットが地上を離れ、速度を増していきます。ロケットは音速を突破してもなんら異常はありません。」
映像を見終わったヒトラーは興奮状態だった。
👨🏻💼ヒトラーの言葉より
「ありがとう。なぜ私は君の仕事の成功が信じられなかったのだろう。私が望むのは、殲滅的効果を望むのだ。この兵器があれば、ヨーロッパや世界は戦争するにはあまりにも小さいものとなるだろう。」
ヒトラーは、研究資金の継続を認めミサイル兵器は完成した。
ミサイルは、報復という意味を取りV2ロケット命名された。
その胴体に、フォン・ブラウンはあるイラストを描かせてた。「月に腰掛ける女性とロケットのイラスト」、フォン・ブラウンを宇宙へ駆り立てた映画、月世界旅行の女のイラストだった。
V2は、世界で初めて宇宙空間に到達した人工物となった。
🎙️フォン・ブラウンの言葉より
「私は、月まで届くようなロケットをどんなことがあっても、一生のうちに作りたかった。私は月に行くためなら悪魔に魂を売り渡してもいいと思った」
V2ロケットは、ロンドンやパリなどに向け、3000発が発射されて9000人もの命を奪った。
🔚1945年 第二次世界大戦終結
アメリカとソ連は、ナチスドイツの科学者の争奪戦を繰り広げる。フォン・ブラウンが選んだのはアメリカだった。
降伏の3ヶ月前、ミサイルの部品や研究資料を列車に積み込みベーネ・ミュンデを抜け出した。
🎙️フォン・ブラウンの言葉より
「私もここにいる仲間たちも西側へ行くことを決めました。私達は、戦争中、新しい兵器を生み出しました。聖書に導かれているアメリカの人々にこの兵器を託すことによってのみ世界の安全が最も確実になると考えたからです。」
終戦直後、フォン・ブラウンをアメリカに奪われたソ連は、ベーネ・ミュンデ実験場をしらみつぶしに捜索した。
👨🏻🏫工学者 セルゲイ・コロリョフ
捜査の責任者は、工学者セルゲイ・コロリョフ、38歳。
コロリョフは、ソ連初の液体燃料ロケットを打ち上げ、また実績を持つ、この道の第一人者だった。
しかし、
大戦中は、不遇だった。
スターリンの大粛清の時代。コロリョフも標的にされ、6年間、強制収容所などでの生活余儀なくされた。
終戦の前年、コロリョフは釈放され研究に復帰した。
V2ロケット分析のため、専門家が必要になったからだった。
終戦後、ドイツ中から部品や設計図をかき集め、帰国した。
その情報を下に、V2ロケットをコピーしようとした。
設計図がない部分は、独自に考え、部品もソ連国内で調達できるように作り替えた。
そして、わずか3年でV2を改良した、R-1ロケットを作り上げた。
一方、
アメリカに渡ったフォン・ブラウンは、思いをなし元に恵まれなかった。
ナチスに協力した科学者への警戒は、根強かった。
📮アルバート・アインシュタインが大統領に送った手紙より
「彼らは、人種及び宗教の違いがもたらす憎しみを我が国に運び込む危険な使者となる恐れがあります。ナチスの党員あるいは、支持者として高位にあった人間をアメリカ市民として、受け入れても良いのでしょうか。」
そんな、フォン・ブラウンに追い風となったのは、朝鮮戦争の勃発だった。
⚔️1950年 朝鮮戦争勃発
冷戦が激化する中、アメリカに過去を説いてる時間はなかった。フォン・ブラウンは陸軍のミサイル開発を任され、第一線に返り咲いたのだ。
🎙️フォン・ブラウンの言葉より
「これは、米国陸軍のレッドストーン誘導ミサイルです。テストの最終段階ですが、アメリカ最大の弾道ミサイルです。」
フォン・ブラウンは、この気を逃さず、アメリカへの忠誠を誓いイメージアップを図る。
🎙️フォン・ブラウンがアメリカ市民権を獲得した時のコメントより
「アメリカ市民になったことを誇りに思う。この国と国防の仕事やな忠誠を誓う」
1954年には、ウォルト・ディズニーと手を結び、当時建設中であった、ディズニーランドには宇宙を題材にするエリアが建設されるようになった。
そのPRのために、フォン・ブラウンは番組出演に駆り出され、一躍有名人になった。
🎙️フォン・ブラウンのロケット宣伝より
「宇宙旅行のためのロケットは、10年以内に完成するでしょう」
変わり身の早いフォン・ブラウンを批判するものも現れた。
🎙️シンガソングライター トム・レーラー歌詞より
ユダヤ系のシンガーソングライター、トム・レーラーが歌う「ヴェルナー・フォン・ブラウン」の歌詞。
「集まってくれ、ヴェルナー・フォン・ブラウン。忠誠心が自分の都合で変わる男。彼をナチと呼んでも知らんぷりん。ナチ?興味なし!とフォン・ブラウンはいう。ロケットを打ち上げた後、どこに落ちようと関係ある?それは私の担当じゃないとフォン・ブラウンは言う。」
一方、
ソ連のコロリョフは、兵器開発の中心人物となっていた。コロリョフの夢もまた宇宙への挑戦だったが、開発したロケットには核弾頭搭載ミサイルR5Mが搭載され、宇宙への夢は大量破壊兵器と姿を変えた。
更に、
世界初の大陸間弾道ミサイルR-7を生み出し、射程距離は、8800Kmでアメリカ全土が射程内だった。
当時の最高指導者、ソ連第一書記ニキータ・フルシチョフがミサイル基地を訪れた時、コロリョフは、フルシチョフに本来の夢実現のための提案をした。
🎙️コロリョウの提案より
「ミサイルに人工衛星を乗せ宇宙に打ち上げたい」と訴えた。
フルシチョフは、ミサイル開発が遅れないことを条件に許可した。
そして、完成したのが、
🛰️世界初の人工衛星 スプートニック1号
ソ連の名声は一夜にして高まった。
しかし、
コロリョフの名が世に知られることはなかった。
暗殺を恐れたソ連が正体を隠すように指示をした。
コロリョフは、同志チーフデザイナー氏と呼ばれ、陰から指揮していくことになる。
一方、アメリカではソ連に遅れをとったショック。
スプートニック・ショックが起きた。
遅れを取り戻すためにアメリカは、1958年にNASAを設立する。
目標に掲げたのは、有人宇宙飛行だ。