人は芸術作品になるか、芸術作品を身につけるか、芸術品を身につけ続け芸術品になるか
このタイトルを見て何を思うだろうか.
「人は芸術作品になるか、芸術作品を身に付けるか」の部分はオスカーワイルドの『青年たちのための格言と哲学 』の引用である.
僕らの人生は虚構である.何ら実質的なものはない.人生は泡沫でありいつか消えゆくものである.しかし僕らはこの時間を,今いる空間に生きている.
なればこそ,楽しまずしていかんとする.これは最近僕が感じることだ.
森見登美彦作の『有頂天家族』に出てくる下鴨矢三郎は次のように語る.
一切の高望みを捨てよ 面白く生きる他に何もすべき事はない
まさにこれである.人生は辛いこともあるだろうが兎にも角にも楽しまずに生きてゆくことなどできない.
ではこの話とタイトルがどのように絡むのかを語るとしよう
以前,服装について語った.服は身に纏う人を表す.そのものの精神を,そのものの魂を,そのものの生き方を,そのものの嗜好を,そのものの人生を.
僕が愛している山本耀司や加藤哲郎は,服と人が出会うことを重要視している.服は服として完成してはいない.完璧な服と人との出会いがあって初めて完成する.僕はこの考えが好きである.
どこかで,yohji yamamotoはモード系だからコレクション毎に買わない奴はだめだとかほざくどあほうがいた.これを聞いた時には怒りが込み上がってきた.知らねえよ!その論理に俺が乗っかる理由はない!今回のコレクションで出会ったものを大切にきて何が悪い!と.
確かに,営利企業である以上買い支えなければ潰れるだろう.しかし僕が買っているものは何であるか.それは芸術作品であり自分の生き方なのである.生み出された商品に対して金を払い,自己表現していく.ブランドに金を払っているわけではない.買い支えなければいけないとか言う奴は経済の論理を知らないクソ野郎だ.経営しか考えていない.
僕らは身につけていたいものを買い,人生を演出する.それだけである.
だからこそ,オスカーワイルドは「人は芸術作品になるか、芸術作品を身につけるか」と言ったのだ.しかしこれに足りないものがある.それが山本耀司や加藤哲郎が語る服と人の出会いである.芸術作品を身につけ,芸術作品になることもある.オスカーワイルドはそこに思い至らなかった.彼にとって,芸術作品を身に付けるだけでは人間的に芸術作品になるとは考えなかったのだと思う.彼の人生的に.この辺は,別にワイルドを専門にしているわけでない自分のたわごとであるので,鵜呑みにしないでほしい.
僕らは楽しく生きるしか道がない.そして,楽しく生きるためにはとかく自身を芸術作品にするしかない.さあ,皆の者よ,人生を演出するのだ!
CS系の学部に行くために使いたいですが,とりあえず五万円ください.レーザーカッター作ります.もしくは住む場所といい働き口