人間きょうふ症(リメイク)36〜40話
36章
久しぶりに音楽を聴きたくなった。蓄音機が置かれている喫茶店に行こうかな。きっと、人生を生きるためのインスピレーションが生まれてくる。そう期待し、息抜きのために外へ出た。
チャリン。喫茶店のドアを開ける。お客さんのいないガラ空きの喫茶店であった。
「いらっしゃい。お前さんみたいな若いお嬢ちゃんが来るようなところでないけど、大丈夫かい?」
カウンターでコップを拭いながら、一人の年配の男性が話し出す。おそらくその人がマスターなのだろう。
「えぇ。窓越しから蓄音機が見えたので、入ることにしました。」
「そうじゃったかい。あの蓄音機はのぉ、わしが妻と結婚するときに親戚からお祝いとしていただいたものじゃ。」
「へー。結構高そうですね。」
「さてはお前さん、マニアかい?」
「ま、まあ。過去に蓄音機を使って聞いていた頃を思い出してて。」
「その話、聞かせてくれんか?飲み物はサービスする。」
喫茶店のお爺さんは好奇心旺盛なのか、耳を傾けた。私の話を聞いてくれるんだとさ。なんと不思議な。
37章
「実は私が以前住んでいた実家にグラフォンがあって、嫌なことがある時、心を落ち着かせたい時にそれでよくクラシックを聞いていました。今の時代はスマートフォンやイヤホンを使用する人がほとんどで。確かに聴きやすさはありますし、気軽に聴けます。でも、それでは心は満たされなくて。レコードを優しく置いて、横にあるレバーをゆっくりと回すあの快感がたまらなくて。」
「その蓄音機はお前さんにとってなんなのかね。」
「それはもちろん命の一部ですよ。でも、今は会えない。だからその間はここに来てこれを眺めようかと思います。」
グラフォンを見つめ、撫でていた。懐かしい木材のざらざら感が自分の持っていたのと同じような肌触り。
「そうかそうか。いつでも歓迎だ。普段はどういうのを聞くんだね?」
「モーツァルトの『魔笛』です。モーツァルトのものであれば、『ピアノソナタ』とかも聞いていましたが、『魔笛』が圧倒的に好きです。他のクラシックもよく聴きますよ。」
38章
「一旦、かけてみるかい?」
「なにをですか?」
「お前さんが好きな『魔笛』じゃ。何度も聴いていたのに、急に聴かんくなれば、寂しさが増すじゃろう。」
“確かに...。“ と少し頷き、お爺さんはレコードをかけた。私は娘を怒鳴りつけるようなヒステリックな女王を思い描きながら、耳を澄ました。
地獄の復讐の炎燃え上がり
母の心を焦がす 娘よ
ザラストロ あやつが憎い
ザラストロ あやつを殺めよ
できないなら おまえは私の娘ではない
親とこの縁を切る
母との絆は終わり・・・(続く)
この歌詞が頭の中で再生され、いつの間にか目から涙が川のように流れてきた。懐かしい感覚を覚えながら、先生のことを思い出してしまった。
「大丈夫かね?」
「...」
彼の声が脳内で認識できず、私は無言。曲の世界に迷い込んだかのように、身体が麻痺してきた。
「おーい。聞こえとるか?おーい。返事せい。」
お爺さんは何か言っているようだが、なにを話しているのか、なにもわからんかった。頭が段々と朦朧としてきた。そして力も弱まってきたような気もした。次第には視界も暗くなった。
39章
ぴー。ぴー。ぴー。
聞き慣れない機械音が耳元で囁いていた。薄く目を開くと、見慣れない黒い点がいくつもある白い天井に、薄いオレンジ色のカーテンが自分の周りを囲っていた。ここがどこなのかを考えながら体を起こそうとしたが、金縛りのような感覚があり、起き上がれなかった。手足どちらもあまり動かせない。声は唸り声。私はどうしたものか。
数分して周りの状況が掴めるようになったのか、微かに話ごえが聞こえた。
「佐藤さんの容態はどうですか...!」
「落ち着いてください。きっと大丈夫ですから。」
「きっとでは安心できませんって!佐藤さんのところへ行かせてください。」
「静かに願います!他の患者様がご迷惑です。」
「でも...」
泣き噦るような声が段々と大きくなっていった。
「佐藤さん!佐藤さん!どこ!?」
以前にも聴いたことのある声だ。きっと...。
「せん...せい。ここに...います...。」
唸り声で返答した。私の声が聞こえたのか、足音が近づいてきて、カーテンが開かれた。
やっぱりK先生だった。先生は頑張って声を張ろうとする私を素早くぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね。本当にごめんね。」
なんで謝っているのだろう。私、何かしたのかな...?
40章
「本当にごめんなさい。あなたを手放してごめんなさい。」
手放した...?一体なんのことなのか。先生は私をいつ手放したのだか。普通に価値観が合わなかったから離れただけじゃなかった?それが手放すことに繋がるの?私には意味がわからなかった。
先生は涙ぐんだ目を必死に擦っていた。
「先生、大丈夫...大丈夫だから。だから...もう...悲しまないで...」
「いえ、だめです。これは全て私の責任です。」
「な...んで...なんで...先生が悪いって...言うんですか。喫茶店のお爺さんは...?」
「佐藤さん、あなた、なにも覚えていないのですね。あのね、佐藤さん。あなたは、トラックに撥ねられたの。」
え?今、なんて?私が車に撥ねられた?なにおかしなことを言い始めたのだか。そもそも、先生はなぜここにいることを知っているのか。意味がわからなかった。
「あなたの大家さんが偶然それを見て、救急車を呼んだそうです。私にも連絡が来たので、それで駆けつけました。」