正論を押し付けられると逃げ道がない。相手に逃げ道を与えよ。
書くかどうか数日間迷っていたけど、この違和感を思い切って書こうと思う。
自分の“心の声”に耳を傾けて、もっと自分に正直になってもいいと以前書いたし。
その時の、その瞬間の自分の感情は紛れもない事実だし、湧き上がる感情にフタをしていたが、ムリやり抑え込んだ感情を解放してあげることにした。
文章を書くことは精神衛生上とてもいい。書くことで浄化され行き場のない感情が救われる。つまり、心のクリーニングに繋がる。
本題。
先日、「あなたはそうすべきだとは思わないんですか」キャリアも勤続年数も誰よりも長い職場のおばさまに言われた言葉だ。
言われた瞬間、違和感を覚え凍りついた。胸に残るモヤっとした嫌な感じ。むしろ傷ついたに近い。肌感覚で解るざらざら感。
「べき」という言葉の違和感。
そう、「べき」とはまさに正論だ。
「べきだとは思わないんですか」が頭の中でぐるぐるとループしていた。えっオレが悪いんか?たしかにその作業が出来なかったのは事実だが、(その作業とは、利用者さんへの歩行介助。) 出来なかったことを追及するような言い方に内心イラっとしていた。
キレ気味になりながらも言い返せない自分がいた。言い返せないの当然、相手が上司だからだ。それ加え、自分の感情を抑え込む謎の性質抑制が働いていた。マシーンのような言葉遣い。やはり「許せない」と震える自分がいた。
「言葉遣い、もうちょっとなんとかならんか」喉元まで出かかって言うのをやめた。
私の中の眠れるヤンキーが「キレろ!キレちまえよ!」と訴える。オラついている。
「歩行でって決まってますよね。1日のうちに歩行回数を増やして出来るだけ車椅子は使わずにって」おばはん(キャリアも勤続年数も最も長い上司)は続ける。
「すみません。たしかにそうですが、まだちょっと、〇〇さんの歩行介助不安なので。。」
僕の理由はこうだ。
理由を述べたが、僕に落ち度があるような言い方で出来なかったことをさらに、なんで出来なかったの?と詰めてくる。
出来なかったのにはいろいろな理由がある、歩行介助にまだ自信がなく不安ということ、自分の技術が追いつかないこと。
60代の半ばだろうか。実際の年齢は知りませんが、年齢重ねてきた人が使う言葉じゃない。
「べき」という言葉を平然と使うことに人間性が見える。言葉は言霊で、言葉には力がある。
出来なかったことを「なぜ出来ないの?なぜ出来なかったの?」と相手に追求せず、「じゃあ、仕方ないよね、そういうこともあるよね。違う方法があるかもしれない。一緒に探っていこう」
これが正解じゃないのか。
僕が上司だったらこの言葉をかけてあげたい。
正論を押し付けられるとこちらは何も言えない。
相手に思いやりの言葉を。会話は想像力と思いやりです。
最後に。愚痴っぽくなってすみません。愚痴は言わないと自分と約束したのですが、愚痴ってます。
しかもその出来事から日数が経っているためもういいかなぁとも思うし、僕の受け止め方が100%悪いと。
ただ、やはりこの違和感を持って仕事するのは辛い。なんとかならんか。
「べき」は使うべきじゃない!
相手は変えられないけど、自分が変われば相手が変わるという。変わるぞおれ。
最後まで読んでくださりありがとうございました。また更新します。