あの日の美術館
普段は絵画なんて、全く興味の無さそうな彼を美術館に誘ってみた。
モネ、シャガール、ルノアール。
有名どころの画家の名前が揃っていて、元美術部の私は胸が踊っていた。
その美術展の招待券がたまたま、二枚手に入ったのだ。招待券だから、勿論無料で入場できる。
なぜ、チケットをくれる人って偶数で渡してくれるのだろうか。自分と行って欲しいという心の現れなのだろうか。
私は元々、一人で行く気でいた。だが、折角二枚あるんだ。彼を誘ってみようと思い立った。興味がなさそうなら、私が二回行けばいい。
「え?マジ?行く!」
意外にも肯定的な答えで驚いてしまった。
チケットに書いてあったシャガールの名前に惹かれたらしく、元々美術館は好きなのだと語り始めた。シャガールの、おもちゃ箱をひっくり返したようだがバランスの取れている感じが好きらしい。
「前に、マルクシャガール展に行った時に泣いちゃったんだよね。でも、美術館のスタッフや周りの人に変な目で見られてさ。こっちは全うな絵画鑑賞を、これぞ絵画鑑賞、っていうくらい絵画を堪能していたのに。」
だから、ハンカチを絶対持っていくのだと言う。純粋すぎる少年を見ているようで笑ってしまう。
シャガールの絵が好きだから、作者であるシャガールの名前は知っているようだが、他の画家の名前はあまり知らないらしい。美術にそこまで造詣が深いと言うわけではないようだ。
「お花見よりも、花火大会よりも美術館が好き。」
彼は言った。確かに、人が多い所が苦手な彼にとって、ごちゃついている所よりも、一つの作品に集中できる場所の方が性に合っているのだろう。
美術館に行こうと、デートの約束をした日、彼は朝からソワソワしていた。同棲しているにも関わらず、彼の仕事終わりに待ち合わせをすることにした。
朝から続いているLINEから、ソワソワしている様子が伝わってくる。
まだ、家を出る準備をしていた私は、彼の感動の涙で濡れるであろうハンカチに香水を振り掛け、鞄に入れた。そういえば、このハンカチも彼が私のために買ってくれたものだ。
無意識に少し頬が緩んでいた。
さて、彼に会いに行こう。
服もメイクも髪型も、デート仕様で完璧だ。
いつもの駅のホームで待ち合わせをしていた。
ベンチで座っている彼を見つけ、駆け寄る。彼は仕事終わりだからだろうか。いつもよりも疲れた顔をして眠たそうだった。
私は、いつものように「疲れたから、帰って寝たい」が始まるかと思い、身構えた。
「眠いけど、楽しみ」という言葉が私に浴びせられた。
デート仕様の私の服を可愛いと褒めてくれた。合格。メイクもいつもの違うのも気がついてくれた。合格。それを、ちゃんと言葉にして伝えてくれた。合格。私は褒められたい箇所をドンピシャで、ちゃんと褒められたので、美術館に行かなくてもこの時点で大満足だ。
彼は本当に美術館が好きなようだ。美術館までの道程も、いつもより数段機嫌が良さそうだ。
いつもは、ゲームセンターに寄りたいとか、この店見ていい?と聞いてくるのに、今日は真っ直ぐ進んでいる。
会場につき、受付の人にチケットを渡す。
本来なら予約をしないと入れなかったらしい。
私の確認不足だ。彼の方を見つめる。
どうしようか、ダメだった時の事を考えていなかった。こんなに楽しみにしているのに。
「今回はこのまま入場して大丈夫です。」その一言に本当に救われた。
すみませんと謝り、入場の列に並ぶ。期間開催すぐだからか、平日だからか、あまり人はいないように見受けられる。
ゆっくり過ごすためにお手洗いを済ませ、彼は仕事用の道具が入ってる大きなリュックを無料ロッカーに預ける。
確認不足はあったが、これで美術館を堪能する準備は万端だ。
最初は、それぞれ絵画の楽しみ方が違うので別行動を取るつもりだった。
しかし、重厚な雰囲気に圧倒されたのか、彼がとても不安そうにしているので、いつも借りる音声ガイドの受付をスルーして、「一緒に回ろうか」と声をかけた。
「いいの?」とても嬉しそうな瞳で見つめられたら、首を縦に振るしか選択肢がなくなる。
それを分かってやっているのだろうか。
しかし、二人で一緒に歩み始めたが、オープニングの説明文の時点ではぐれた。
大して人が多かった訳ではないが、説明文と、一枚の絵画に費やす時間が違ったのだ。
彼よりも先に私の方が、絵画へと足を向ける。
二人で回るという約束は、そうやって一枚目の絵画の前で崩れ去った。
あぁ、こうなることは予測できたはずなのに。音声ガイドは、好きな声優だったのに。
音声ガイドを借りなかったことを少し後悔した。
結果的に、別行動を取ったのが功を奏した気がする。彼の集中力に驚かされた。
一枚の絵の前に佇み、筆致を見ているのか、絵の具の混ざりを見ているのか、それとも絵の世界観に引き込まれたのか。
瞬きすら忘れているのではないかと思うほど絵画に見入っている彼を、私は少し離れた場所から、それすら一つの作品のように、見つめていた。
私は元美術部だからなのか、一つの絵画を見るのに人より少し時間がかかる。
好きな作品、嫌いな作品は勿論あるが、一つの絵を鑑賞する時間はほぼ同じくらいだ。彼は興味のない作品をさらっと流してしまう。
彼を見かけては見失い、気づくと後ろに現れる。
たまたま一つの絵画の前で、隣になったが、隣に私がいたことにも気がついていないほど、集中していたそうだ。
だが、その距離感が心地よかった。
集中している時に彼も話しかけられたくはないだろう。
それぞれが、それぞれの時間で美術館を楽しんでいた。
彼は一つの絵画の前で、長い間立ち止まっていた。それはやはり、彼が好きだと言っていたシャガールの絵の前だった。彼の横を沢山の人が通り過ぎていく。
彼だけ時間が止まっているようだ。
大きな絵だった。
もちろん、私もシャガールは好きだが、彼の熱を帯びた瞳を見ると好きが劣っていることに気がつく。
そんな彼をじっと見ていられる私は、本当に彼が好きなのだと再認識する。
結局は、彼の方が早く鑑賞を終えていた。グッズ販売コーナーで合流した。
実は足が痛かったらしく、早めに切り上げたらしい。もう少し居たかったと、何度も繰り返していた。
そりゃあ足も痛くなるだろう。短く感じた時間だったが、時計を確認すると二時間近く経っていた。そんなに展示数は多くなかったはずなのに。
美術館を出るとお腹が空いている事も思い出した。
彼も仕事終わりで、何も食べていないのは知っているのでご飯に誘ってみる。いつも来る駅で繁華街なはずなのに、何故かいく店は二、三件に絞られている。
そんな性格が似ていて嬉しい。
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