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#経清X (再演)を観て考えた
初演も全力で楽しんだし、良い作品だったと思う。
振り返ってみたら、めっちゃ熱く語ってた👇
再演はそれが更に濃縮され研ぎ澄まされ深まっていた。
大阪の劇場で観たのに、東北の空を感じた。
1. 書き残されなかった東北の歴史
その痛み。その重み。
それは今の世界と地続きで、人類の普遍性と、千年経っても学べない愚かしさに慄然とする。作品のエンディングは、未来への希望を提示してくれているのだけれど。
初演は八戸で観たので、朝市に行ったり酒蔵に行ったりブイヤベース食べたりと、十分「東北」を味わえてたからかも知れないけれど、観終わって、この物語縁の地に行きたい!とは思っていなかった。
再演を観た後は、「東北とその歴史を知りたい」「現地に行きたい、感じたい」という気持ちが沸々と湧き上がって来て、今もその熱は私の中に在る。
この熱は何なんだろうな。
2. 人は死ぬよ 必ず死ぬ
何故経清は頼義の提案を断ってしまうんだろう、とぐるぐる考えていた。
黄海の戦いで、義家と頼義を殺さなかった経清。その結果として、経清を信じてついてきた兵や、安倍一族が多数死ぬ事にもなったのだろう。
それでも自身は相手に情けをかけ、かけられた情けは断る。
なんでやねん、と思ってしまうけれど、経清には経清の「美学」があったのかなと今は思っている。
この世に絶対的な正解なんてものは存在しない。同じ事象に対しても、それをどの角度からどんな心持ちで眺めるかで受け取るものは千差万別。ならば自分にとっての正義=己の美学に則って生きることが最善解なのか。
SNSに流れて来た某特撮番組主題歌の歌詞を見て、そんなことを考えた。
3. 伝えること 広めること
親子の情。
それは経清と母君、義家と頼義、清衡と経清・カズコ、貞任と頼時等、作品中でもさまざまな形で描かれ胸に迫る。
それ以上に今回グッと来たのは、血脈を超えた繋がりだった。
再演では阿弖流爲降臨の場面がカットされ、経清の「懐かしい」の台詞のみに託された、田村麻呂と経清の繋がり。
その繋がりを具現化しているのであろう素早丸を経清に託す頼義と受け取る経清。そして己の最期を覚悟した経清はその素早丸を義家に託す。
こうして、血脈に従ってではなく、想いを託す相手へと受け継がれた素早丸を携えた義家が、経清でさえ止められなかった合戦最後の無駄な殺し合いを止める。
初演から変わったこの合戦終結の場面は、何かを成し遂げようとする時、自分だけ、身内だけ、の思考から解放され、真に想いを託すべき相手へと伝え広めることで、その想いを結実させることが出来るのだと語りかけているように思えた。
そんなこんなで素早丸のことが気になり調べてみたところ、実は兵庫県加東市の播州清水寺所蔵らしい。但し腐食が進んでいるため現在は東京国立博物館に保存されていると。実物は無くとも縁の地を訪ねてみたいと思う。
再演大阪公演グリーティングプレビュー&初日観劇後の迸りも貼っておく。