祖父とのお別れ、感謝の思い

産後、身体も精神的なものも落ち着いてきたころ。
祖父が入院することになったと母から聞かされた。
肺炎(間質性肺炎という、肺が硬くなり繊維化する病気)によるもので、5月末から家の近くの総合病院に入った。聞けば、呼吸器の病気の中でも治療が難しい病気らしい。美空ひばりも晩年この病気で苦しんだようだ。
この頃から親兄妹の連携が頻繁になり、母も月一で帰省するようになった。
従兄弟からも連絡が来るようになり、みんなおじいちゃんに会いにいったげて、というトーンになった。父方の祖母はコロナ真っただ中だったこともあり、施設で亡くなったが会いに行くことはかなわなかった。今思えば、元気なうちに会いに行くことができる時間を祖父が作ってくれたように思う。
昔は夏休みの一大イベントで毎年帰省して、みんなで焼肉をしたり、プールに行ったり、肝試しをしたり、寝る前のお座敷での怖い話を語るのもお決まり。本当にワクワクして楽しかった思い出がある。一人称はワシ。ワシもうええわ、とか、そらそうやわ。と祖父はお庭に出したテントのなかで、クウカイマニマニ、というキャンプの歌を歌ってくれたりした。この歌は息子や娘には歌わなかったのに、孫に歌っていてびっくりした、と母が言っていた。百人一首かるたをつかった坊主めくりも恒例だった。夕食の席では、奥の定位置でいつも規則正しく18時には着席してビールを飲んで食事をしていた。高校野球や阪神戦が好きで、いつも応接間で一緒に見ていた。夜には一緒に宇治抹茶金時アイスを食べた。もう20年以上も前のことなのに鮮明に思い出すことができる。

祖父は孫の私たちが小さい頃、60代でもう現役は引退していたと思うが、小さな箱のHOPEをガンガン吸っていて、ほんとに居間が煙でもくもくしすぎて、おじいちゃん大丈夫かな〜と子どもながらに不安になったものだ。でも、朝夕のウォーキングは欠かさず、本当に健康的で足の筋肉が隆々としていたのを思い出す。
私の小さい時には、ミッキーマウスか何かのおもちゃが欲しいー!!!と泣いた私に祖父が激怒したとの話も聞いた。なんとなく、その時の様子を想像してなのか、はるか記憶の彼方の感覚かわからないけど、ぼんやりとその情景が思い浮かぶ。

最初は、もうすぐ90歳になるタイミングで、病を抱えた中での喜寿のお祝いをどうすべきか、という相談を母にしていたが、家での生活が難しくなって最寄りの総合病院に入院することになる話を5月末に聞いて、会いに行きたい思いが強くなり夫に相談したら、

会っておいたほうがいいよ。絶対に後悔しない選択をしたほうがいい。子供は俺が見ているから言っておいで。と言ってくれた。

ひとつ上の従兄弟が5月の末に祖父のお見舞いに行った話をきいて、危篤とかそういう一時を争う状態ではないものの、元気なうちに会っておくほうが良いのではという思いが強くなった。そしてなぜか祖父のことになると心配させたくないのか、あまり詳細の情報を伝えてこない母親の様子を見て、自分から行動を起こすほかないと考えるようになった。

孫の立場からしても後悔はしたくない。元気になって欲しいからそのためにできることはしたい。とにかく居ても立っても居られない、行動したい想いに駆られ、母に相談。すると、母に聞いてみる。との反応。
結果、6月の二週目、妹と従姉妹と3人で祖父母を尋ねることになった。

向かう日の前日には祖母の家電に電話して、挨拶をした。おじいちゃん、目が見えないから、大きくスケッチブックかなにかにそれぞれの名前を書いてきてね。伝えたいことも書いたらいいわ。と教えてくれ、事前準備しておいたほうがいいことを聞けた。我ながら、事前に連絡をして本当に良かったと思ったし、迷ったときは即行動、が大切だと思った。

翌日の土曜日は、5時半に目が覚めてそこから眠れず。
というか前日夜もろくに寝付けずだったので明らかに寝不足だったけれど、アドレナリンがギュンギュンで不思議と眠くなく、早く出発することにした。

JRの駅から東京方面の新幹線に乗るのは引っ越し後初めてで、日帰りなので日本列島半分を往復することになる。前日に街のお花さんで手に入れたプリザーブドフラワーに、3人の孫の写真をつけようと朝思い立ち、駅の近くのコンビニで印刷すると、近くに春日大社を発見。
春日大社といえば奈良。今から行く場所は奈良。ここは熊本。この偶然には鳥肌がたった。こうやって言葉に表せない不思議なことが時々起こる。時空を超えた結びつきを感じる。そしてまるで今日の私の旅を応援してくれているかのようだと感じた。

従兄弟5人の中で女子は4人、その中では年長ということもあり、自分が今できる最善を尽くしたかった。向かった3人のうち、私以外の二人は働いていて忙しいし、準備ができるのは私だけだ、と思って買い出しもしたし、浮かんだ写真のアイデアも実現させた。祖父は、私たちの姿を見て、頷いてくれた。ハァハァと苦しそうに息をしていた。祖母は冷静に、おじいさんもう長くないわ。と言っていた。その目には悲しみが映っていたけど、気持ちはしっかり持っているようだったし、息子と娘2人がよく支えてくれていると心強そうだった。

この時感じたこと。生きているときに会う、が大切。そうでないといつまでも後悔する。行くと決めたらすぐ計画して、周りを巻き込み、何を伝えたいかも含めてしっかり準備する。話したいであろうことに想像力を働かせる。そして投げかけて引き出す。いっときたりとも無駄にしていい時間なんてない。フル回転して話す。どんな人にも終わりが来る。

1ヶ月半ほど、祖父は元気に過ごしていたようだったが、7月の末ごろ老人ケアホームに移ることになった。これ以上は治療ができないから、という理由だ。
最終週の火曜〜木曜まで、母と叔母が退院と入居のサポートをした。木曜に母が関東に帰る日、ほなワシはここにおるわな。と祖父は言ったそう。母が作った2着の浴衣も見せて、喜んでくれたらしい。この時はご飯もよく食べていたと。
だがその3日後の夕方7時前、祖父は天国に行ってしまった。日曜日の朝は、祖母と叔父が会いに行ったそうで、元気な様子だったようだ。だがあまり食べられなくなっていたようで、点滴をしていた病院とは異なり、エネルギーがなくなってしまったためなのではということだった。

もともと家で過ごしていた春ごろは、夜起きた時も1人で歩いてトイレにも行けていたようだが、叔母は、病院にそもそも入ったところからおむつになって、運動量も減ってしまったしだんだんと気持ち的にも難しくなったのではと言っていた。

でも祖母も1人では見きれなくなったので入院はやむを得なかったのだろう。2年前の秋に夫と2人で家に訪問した時は、二階のお座敷にもあがって、クーラーきいとるか?暑ないか?と心配してくれていたのが印象的だ。
少し足どりは重くなっていたけど、元気そうだった。
一緒におまんじゅうとメロンをいただいた。

今回は娘も一緒に行くことにしたため、
お通夜の時間はホテルで過ごし、翌日の葬儀から参列した。法要のあと、皆で花を棺桶の中の祖父に手向けるときが本当に悲しかった。何度も祖父の死を実感しているはずなのに、次々と感情が湧き出て涙と共に溢れていく。祖母や母親、叔父叔母の様子をみてまた悲しみが溢れる。でも祖父の表情はとても穏やかだった。眉毛やおでこが幼いときから見ていた祖父のそれと今も変わらなかった。祖父と祖母のおかげで今があること。そして命を繋いでこの娘がいることをひしひしと感じた。

火葬場までの道のりは長かった。奈良の市街地を通り抜け、奈良公園の中を通り、左折、少し坂を登ると右折、最後に左折して山を登っていくととても新しい、旅立ちの杜という施設が見えてきた。有名建築家の作ったホールのような少し無機質な建物だが、中に入ると木の温もりも少し感じられる作りだった。

火葬場でのお別れはつらいものだった。このつらさを覚悟してきたはずなのだが、人間としての尊厳である肉体がなくなってしまうことと直面するこの時間はとてつもなくつらい。戸が閉まる瞬間、ほんの一瞬、皆口々に別れや感謝の言葉を述べた。

火葬している間、昔は家に帰る人もいたくらい時間がかかったものらしい。今は1時間半くらいだという。
炉は最新式で煙突も見当たらない。

皆でお弁当を食べた部屋からは、青い空と緑が生い茂る森が美しく見えた。旅立つ祖父もええ景色やなといいそうな美しい景観だった。
祖父の遺影が置かれ、祖父を囲んでみんなで団欒して過ごしたいつもの夏を思い出す。無邪気な娘は束の間の笑顔を皆にもたらす役割をまっとうしているように見えた。大きくなったら、曽祖父はあなたが生まれた後に亡くなったんだよ。あなたの誕生をとても喜んでくれたんだよ。と伝え、曽祖母との写真を必ずや見せよう。

気になっていた祖父母の馴れ初めや戦時中の話を話題にした。叔母や母も知らないようなロマンチックな話も出て嬉しかった。とにかく祖母は綺麗でモテモテだったらしい。社内結婚したが、迷惑をかけないために転職をして経理担当になったそうだ。共働きの辛さがわかる、とこの歳では珍しい経歴。竹槍訓練を6歳くらいでしていた話も。祖父もそのときは10歳くらいだったので父方の祖父のように戦地に赴くことはなかった。

こういう昔の話は、故人になってしまっては聞けないものだ。会えるときに少しずつ聞き出すことが大事だなと思う。そして自分がその世代になったら、意識的に話すことも大切だろう。

祖母は四万十川に行きたかった、といっていた。
2年前に訪れた時にもモンベルの野田知佑の本を見せてくれた。祖父といきたかったんだろうな。

祖母と別れるとき、
また会える日を信じて笑顔で手を振った。
まだまだたくさんやりたいことがある、と6月にお茶した時に言っていた。どうか長生きできますように。
まだまだ祖母孝行させてください。

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