ここではないどこかを求める人たち
プルゴリで有名な元プルデンシャル生命で有名な芦名さんの記事を読んでいたところ気づきがあったので、備忘録。
そうなんだよね。
最近、私の中のキーワードは「ここではないどこか」。
ここではないどこか思想が、そこかしこに溢れている。
お金持ちになって、南の島でエンジョイしたり、FIREして悠々自適な生活を送ったり、子育ても仕事も家庭もうまくいっていて、毎日が輝いていたり、好きな仕事をして、みんなに賞賛されたり、モテたり、好きなものをたくさん買ったり。
そのために必要なのは、お金だ。
もちろん時間とか友人とか健康な体とかもあるけれど、クローズアップされやすいのはお金ではないだろうか。
1億という金額は、年収1千万の人だって稼ぐのに10年、年収500万だったら20年かかる。ワンクリックで1億稼ぐ時間を1秒としたら、日本人の平均年収を500万として、20年分の1でできてしまうことになる。
まともに考えたら、そんなことがあるはずがない。
夢物語だなぁと笑えるのならばいいが、本気で「ワンクリック1億」をクリックしてしまう人がいるのも事実である。多分クリックしてしまった本人だって本気で「1クリックで1億が稼げる」とは思ってはいなかっただろう。しかし、それでもクリックしてしまうのはなぜなんだろう?
「信じてないけど、もしかしたら本当にあるのかもしれない」と、信じたい気持ちがあるのだろうか。「20年かけて1億を稼ぐようなちんたらした世界ではない、もっと楽にスピード感を持って手に入れることのできる黄金の世界がきっとクリックした先にある」と信じたいのだろうか。
つまり、クリックする人たちは偉大なるドリーマーなのだろうか?
そして、その熱量は、かつて、コロンブスがアメリカ大陸を夢見て航海に出たように「海の向こうに広がる世界を知りたい」と思う気持ちと同じなのだろうか。
コロンブスだって、アメリカ大陸が見つかるまでは、周りから「何夢みたいなこと言ってるんだ」と馬鹿にされていたかもしれない。
ワンクリックで1億稼ぐと言う文字をクリックしてしまう人も、まぁ馬鹿にされるであろう。
でも、馬鹿な私でもなんとなくわかるのだが、この2人のドリーマーには何か大きな違いがあるような気がする。
でも、それを言葉にするのは、なんだか難しい。
夢を見るのは自由だろうと言われてしまえば、その通りだからだ。
あえて言うならば、コロンブス見ていたのは、自分で掴もうとする種類の夢であり、ワンクリックで1億をクリックしてしまう人が見る夢は他人からもらおうとする種類の夢と言う違いなのか?
子供が作文などに将来の夢を描けば大人は微笑むであろう。子供がこれから成長するにあたり、夢を目標に頑張る姿が想像できるからだ。たとえその夢が叶わなくたって努力や行動した事実は宝物になる。しかし、大人になってから夢を描けば、これを微笑む大人はどれぐらいいるのだろうか。
大人になってしまえば、大体の自分の実力がわかってくる。成績はどのくらいか、体力はどのぐらいか、対人スキルはどのぐらいか、よく気がつくとか、集中力があるとか、喋りがうまいとか、聞くのがうまいとか、ある程度の能力は、もう20歳位になれば見えてくるのではないだろうか。
その上で、それを資本として、次のステップを「夢」として進むのなら、現実的だし、実現性もある。ただ、ワンクリックで1億と言うのは、何も資本としていない。資産ゼロの状態から見る夢である。
同じワンクリックで1億と言う言葉を、バフェットが言うなら納得はできる。
でも、バフェットではない。一般人が言っても、それは夢物語にしかならない。
でも、そのはずなんだけど、それでも夢を見てしまうのはなぜなんだろう。
私の場合は、「ワンクリックで1億」と目にしたら、笑えると同時にむなしさも出てくる。そんなことができたら楽だろうけど、そんなことがないのはわかっているからだ。私のような一般人には努力をして稼ぐ以外に方法は無い。死ぬまでずっとだ。
でも、私には、まだ努力が楽しいと思える心の体力がある。
だからひとまずは、今のままでいい。
でも、努力が楽しいと思えない人がいることも事実であろう。
そういう人はもしかして、誰かが夢をくれるかもしれないと言う願いを込めて、クリックしてしまうのではないだろうか。
誰かとは誰であろうか。それを想像するのも楽しいのかもしれない。
ワンクリックで1億が手に入る世界が本当にあるのかもしれない。それはどんな世界だろうか。それを想像するのも楽しいのかもしれない。
ここではない。どこかを夢見ながら生きるから、人生は楽しいのかもしれない。
逆を言うとそういうことを夢見ていないと、
人生は生きるのには長すぎるのかもしれない。
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