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SNSが可視化させたのは、自分の心の貧困である

SNSがない時代、人は人、自分は自分と言う世界が成り立っていた。

自分の生活圏以上のものを見る経験もなかなかあるものではないし、逆に自分の生活圏以下のものを見る経験もそれなりに少なかったのではないだろうか。

ところが、昨今、SNSではキラキラした世界が輝いている。いわゆる自分の生活圏以上のものを見る経験が増えてしまったのだ。

もちろん、ギミックもあるであろう。また、何年に1度かの記念日ゆえに輝いて見えるのかもしれない。

ただ、ある人にとっては、何年間に1度の輝きの写真でも、大勢の人が投稿してしまえば、ものすごい数の輝かしいタイムラインが出来上がる。

画像の力は強い。美しい世界は、キラキラし、異様な吸引力を発揮する。

今まで、自分がこれで良いとやってきたことが、途端にみじめなものとなってくる。

そして、自分が、おしゃれなカフェのケーキをアップするたびに、頑張って貯めたお金で行った海外旅行の有名なロケ地で撮影するたびに、高級ワインをアップするたびに、思い知らされる。

私は本当はこんなことできる人じゃない。今日は奮発したからこんなことができる。明日からはアップできるような世界の住人から外れてしまう。

私ってお金ないなぁ。輝いてないなぁ。

キラキラした世界を頑張ってアップするたびにそんなふうに思う事は無いだろうか。

私はどちらかと言うと、そういうことをしない方なのだが、なんとなくそういうむなしい気持ちになりそうだからアップできない。

誰かが比較してくるわけではない。自分が勝手に見て勝手に比較してしまうのだ。

SNSの世界なんて、みんな無理して作ってるんだから、気にしちゃだめだよ。そんな声もある。

けど、スマホを開くたびに、そういう世界は勝手にやってくる。

自分と比較せずにいられる人はどのぐらいいるのだろうか?

私は思う。

SNSが可視化したのは、リッチで楽しい世界ではない。比較しないでもよかった自身の貧困さなのである。

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