「あの八百屋、株で儲けたから閉めたんやと」
小さい頃、お使いにいった八百屋のお兄さんが株で儲けた話は知っているのに、東京で住むアパートの隣の住人の仕事内容すら知らない、今日このごろ皆さんいかがお過ごしですか。
よくある話ではあるんですが、都市に住まう(マンションポエムみたい笑)とはとても不思議なことですよね。と田舎出身の私は思います。
田舎では誰がどこで働き、どのくらいの金を稼いでおり、どこに親戚がいるのかなどは皆が知っていることですし、知っていることに特段不思議さがあるわけではありません。
タイトルのエピソードが良い例です。
八百屋の話
私が小学生だった頃、すでに衰退を始めていた地元商店街には、食料品店、八百屋、魚屋、肉屋、自転車屋、酒屋などの商店が一軒づつありました。
一軒、また一軒と閉店していく中、その八百屋も閉店します。
「あ、また商店街の八百屋が閉まったな。駅前の大型スーパーにみんな買い物に行くから、閉まるのも当然だよな」と思っていました。
しかし、私の予想は外れているようでした。
ある日、いつものように祖母の家ではコーヒータイム(※1)が行われていました。
何気なく
「あの八百屋閉店したね。やっぱり大型スーパーのせいかな」
と話題を提供すると、皆が待ってました!と言わんばかりに話し始めました。
「佐藤のくみちゃんによると、株で儲けたらしいよ」
「あらそうなんけ。そんで店閉めてもうたんか」
「息子がパソコンで株やっとんやと、あの松竹梅高校行っとった子や、うちの息子の同級生のはずやわ」
「そんなら、栄子ちゃんの一つ上か?」
「そうや、その代や」
「はーそうかいね。そんなら、あのうちの親父はどうするんや?まだ働けるやろ」
「知らん。知らんけんど、工場(こうば)でも行くんかもしれんわ、嫁さんの実家、工場しとるやろ」…
この会話を聞いたのは私が、小学校の頃だったと思います。ずっと忘れていたのですが、同郷の友人と話している時に、ふと、思い出したのです。
東京にて
「そういえば、東京って隣の人が何をしているかも知らないよね」
「だよね。そういえば、僕らが小学校の時、あの八百屋がしまったじゃん」
「息子さんが株で儲けたやつでしょ」
「そうそう」
「…というか、なぜ知ってるの!笑。こういうところだよね田舎って」
このエピソードから考えたこと
私の地元のような「田舎」では隣人の情報が頻繁に共有されています。コーヒータイムや病院の待合、街のスナックなど、パブリックな場から、プライベートな場まで噂は人から人へと駆け巡ります。隣人同士が隣人同士を知っています。
しかもそれは、時間や物理的な場所を超えて共有されたりもします。私と同郷の友人の会話のように…
一方で、都市では隣人の仕事内容ですら知ることは困難です。目が合えば会釈するかもしれませんが(時にはしない人もいる)、その人がどの町で働き、どんな役職で、どんな家族がいるのか、いないのか、全くわかりません。
でも、なんだか、私は匿名性のある都市の生活が結構好きだな、と改めて思いました。それはなぜでしょうか?
互いに地縁から浮遊した匿名の人同士だから、趣味や思想のような抽象的な物事で繋がりやすいからでしょうか?
それとも何者でもないから、ある種の無責任なふるまいが許されるからでしょうか?
「自由」でいられるような「気」がするからでしょうか?(例え地縁よりも大きなシステムに依存し、本当は身動きが取れなかったとしても)
うーむ…
このことはもう少し考えてみたいと思います。オチがない記事で失礼しました。
ではでは
(こういう感じでメールとかブログを締める文化、2000年代にあったよね!?)
全ての人名・固有名詞は仮名であり、私の記憶を元に書いているため事実と違うこともあるかもしれません。
※1 コーヒータイム:祖母宅では、ほぼ毎日開催されるコーヒタイムがあった。14時〜16時ごろに、女性たちが集い、コーヒを飲みながら情報交換をしていた。その場には近所のクリーニング屋の奥さんや婦人会仲間、本家の奥さんなど、祖母の知り合いが集う。祖母はマグカップ5杯分淹れることができる、大きなコーヒーメーカーでコーヒーを作っていた。