中学生の頃、私は踊っていた
やっぱり体系的な自己紹介を書く気が起きないので、時系列で今の自分と関係ありそうなトピックを拾いながら、エピソードを書いてみる。前回「フィールドワーク人生の原点」は小学校時代のことを書いたので、中学生時代について書いてみる。
死と踊りの中学校時代
中学生の頃、私は踊っていた。
らしい。
確か、図書館にあったミュージカル映画の本(DVD付き)にハマっており、『雨に唄えば』のマネをして、祖母に頼み込んで買ってもらった、ちょっと高級な大きな傘を振り回しながら、徒歩で15分ほどの中学校に通っていた。目をつけられていたのか、ある日大きな傘は盗まれてしまったことをよく覚えている。それ以降私は千円以上の傘を買っていない。今でも悔しい。
学校内でも踊っていた。多目的ホールと呼ばれる、なにもない空間が学校内にあり、田代くん(仮名)と地上でトリプルアクセルができないかトライしていた。
また、職員室前の廊下は比較的広く、人通りも少ないのでよく踊っていた。大きくスキップしていたというか。そして、なぜか怒られた記憶はない。
中学3年の頃、体育祭には関わりたくなかったので、文化祭を司る後期の生徒会長に立候補した。当時はとにかくアメリカ文化に憧れていたので、アメリカのティーンムービーよろしく、大演説をかまし、圧倒的票差で生徒会長に当選した記憶がある。演説ではレスポンシブなことをしてた気がする。あと家でめっちゃ練習した。
ここまで読むとだいぶ、ぶっ飛んでて華やかな気もするが、学校内の序列的には序列外という感じだった。科学部という帰宅部に毛が生えたような部活に所属していたし、テストの点数がとても高いわけではなかったので、そういう意味ではパッとしなかった。また、ある種の放任主義だった親の影響で、高校進学もどうしたらよいか全く決められず、「勉強していい学校に行け」と言われている同級生を羨ましく見ていた。
その「わからなさ」が煮詰まって、13-14歳頃、毎日死にたいと思っていた。どのくらいの高さから飛び降りれば即死できるんだろう。田舎にはそんなに高い建物がないからな。何日くらい絶食すればいいのか。というか普通にしばらく家を出たらいいのか。などと今思えば恵まれていたからこそ考えられることだと思うが、そんなことをずっと考えていた。
流石に心配に思ったのか、父は「一緒に瞑想をしよう」とか言ってきて、瞑想したりもした。何も考えずに書いてみたが、普通の父親って余り瞑想とかさせないのかな…まあいいや。
でもそこは反抗期。自分で何か、糸口を見つけたく、ひたすら正信偈と仏説阿弥陀経を読むことに走った。祖母宅から持ち帰った読経CDに合わせてひたすら読経し、書き下し文や現代語訳を読んだ。さすが、真宗王国北陸である。
そんなこんなで、ある日「人生とは阿弥陀如来の無限の光の中にあって、お釈迦様の手のひらで踊っているに過ぎない」と急に自覚した。とても急に。ある種の諦めのような、静かな心になれたのである。
そこからは、あまり死にたいなどとは考えなくなった。生死など人間がどうすることもできない一番身近な現象である、と思えた。自分で死のうが、誰かに殺されようが、病気で死のうが結局は同じだと、そのときに、すんなり自覚した。曾祖母、祖母、母の三者は事あるごとに「決まっている」「生まれたら死ぬのがセットだ」と繰り返し話し、道路で車に轢かれている猫を見て「南無阿弥陀仏」と唱えていたのだが、その行為と儀式が腑に落ちた瞬間だった。
まあ、そんなことがわかったとしても、俗世の悩みが解決するわけではなく、高校にそもそも進学するのか、進学するならどの高校なのか、全く決められないまま中3の夏休みが終わった。
そこで、今思えば結構な間違えを犯した。地域で一番の進学校(大学進学者が多い高校)に行くことに決めてしまったのである。
この時母がポロッと言ってしまった言葉を過信してしまったのだと思う。
「なんにも決められないなら、そのあとの選択肢が多い進学校に行っておけばいいんじゃない?」
この言葉にひっぱられる形で、そのままでは不合格であってであろう学力を、隣町の最先端の短期講習に通い、無理やり上げて(無理やり色々暗記して)、進学校に進学することになった。
母も同じ学校に通った経験もあるので、当時の自由な学風を思って言ったのだと思うのだが、私の時代はそんなに自由ではなくなっていたのである。この選択が、暗黒期である高校時代をつくったな…と今なら思う。
まあ、私は影響されやすいので、あの高校に行ってなかったら、全く勉強せず、大学に行けてなかっただろうなとも思うけど。
案外長くなってしまったので、高校時代のことは次回のnoteにて。