解釈によって与えられる救い
同じものを見ていても、人は異なる解釈を行なっている。それは当たり前のことだが、すぐ忘れてしまう。
忘れてしまうから、自分の解釈に囚われてしまう。
赤い洋服を見てすぐに「これは女性用だ」と思ってしまう自分がいることに、普段は気が付かない。
では、どんな時に気がつくか?
他者の解釈に触れた時である。
今日、デザイナーの方と無印良品に行く機会があった。その方は無印良品のファンとして、定期的に無印良品に通っているらしい。
ひっそりと並べられる新商品を発掘したり、絶妙に色を変える文房具を吟味したり、クローゼット収納箱が数センチ変化してることを確認したりと、定点観測を続けている。
そういう専門家と店を歩くのはとても楽しい。いわば、ゲームさんぽをリアルな場でやっているようなものだ。一つ一つの製品に歴史があり、経緯がある。そして、デザイナーならではの観点で紐解いてくれる。
「このシェルフはグレーだったんですが、今は白っぽくなってしまったんです。うちにあるのグレーだからもう足せない。」
「このボールペンみてください。中の機構がインクと同じ色でしょう?これはなかなかできない。すごい。全色持ってます。」
「このケース、ずっと変わってないように見えるけど、ちょっと変わったんですよね。これにはみんな困ったんです。」
「最近のシャツは肩が落ちてるんです。トレンドに合わせるようになってきた。」
こんな感じでどんどん出てくる。
そこで私もかつて友人から聞いた豆知識を披露してみる。
「パンツの生地が年々薄くなってるらしいんです。コストの問題ですかね。」
「昔はアメリカンな厚手の生地が流行ってたからかな。薄手の生地って扱いが大変だから、コストかかるらしいですよ。」
中途半端な知識では太刀打ちできないと感じ入るとともに、ものごとには一面だけでは捉えられないことがある、と再認識させられた。
私は「生地が薄くなること=安くなる」と早合点していたが、そうとも限らない。トレンドに合わせているのかもしれないし、むしろ高級なのかもしれない。モノの変化は常にさまざまな要因が関係しあっている。
モノに対する解釈が複数あるように、出来事への解釈も実は複数あるはずだ。
自分にとって悲しい記憶も、悲しい部分にしか目を向けていないのかもしれないし、悲しい側面にしか触れられなかったのかもしれない。
北側の壁は冷たいが、その反対側の壁まで冷たいとは限らないのだ。触ってみなければわからない。
解釈に苦しめられることもあるが、解釈に救われることもある。そんなことを無印良品のパンツを見て思った。
そして、ここは南半球かもしれない。