【国際協力機構・日本の団体に関連したアフガニスタン人の国外退避にかかる外務省への要請】 ーよかったら目を通してくださいねー
元同僚より戴きました。
2003年「国民選挙の為の住民登録プロジェクト」に参加、中央高地区(バミヤンのあるところ)の初代ロジスティック担当官として半年弱滞在して、現地の方々に本当にお世話になった事を思い出して書いています。
ここに書かれているのはUNAMA関係者で、今回の署名趣旨の日本の支援関係者ではないのですがどんな人たちがどの様な気持ちでかつて開発援助に関わったかという事が少しでも伝われればいいなと思いながら。
皆様ももし趣旨にご同意いただけるのなら下の投票用紙にてご参加ください。8月16日(明日)が一旦の締切日となっています。
アフガニスタンに縁がない方、あまり知らない方は、良かったら以下を読んで想像してくださいね。
・ 豪雪で派遣先の村に足止めになったチームの面倒をその村長が中心となって村全体で一週間みてくれたこと → いや~チーム長の某欧州国スタッフが軍を動かせ!ヘリ出せ!~と大変で、この衛星携帯でも当該スタッフが吠えているのを自分が雪道でスタッグしている中聞いてきたんですよね。
・ やはり吹き溜まりでコンボイ(車列)がスタックしても、積んでいたシャベルで7名で雪かき、あっという間に道を切り開いてくれたこと
→ 除雪機の無い豪雪地帯での常識なのでしょうが、本当に優秀なチームでした。
・ 女性は外国人と接触したがらないので 若い男の子が共同宿舎の掃除・洗濯・料理までをこなしてくれたこと
→ 女性の部屋の掃除までは抵抗があったみたいですが、それでもやってくれました。
・ 数少ない女性のプロジェクトメンバーの家に遊びに行ったらブルカの下はパジャマでノーメークな事が判ったこと
→ あれを見てからブルカが女性の味方という事がよく判りました。
・ バミヤン空港では離発着の前にコースから家畜を追い払うという重要な役目の子供がいたこと
→ のちに アフリカで似たような場所を見た記憶もあるけど。まずは子供が滑走路から動物をどけ、その後車両で確認した上で着陸させていました。その後JICA支援でこの空港は普通の空港並みに改良されました。
・ 圧力鍋が爆発して顔と腕に大やけどを負ったスタッフが「お金が必要だから」と一日は休んだものの、翌々日には塗り薬で顔を真っ白にして出勤してきたこと
→ 普通の国なら入院もの。彼は臨時雇用で日当払いだったから休みたくなかったのでしょう。
・ ご飯をご馳走になって帰る道、管制塔もなにもない空港の滑走路を横切ったら空一面の星が見えて、現地スタッフとともに感動したこと
→ こんなきれいな星空を見る事はもう一生ないだろうな・・と言ったら、「へん、俺たち毎日見てるもんね」と威張られた。空港近代化に伴い滑走路を徒歩で横断という経験はもうできないのでしょうね。
・ 住民登録の女性チームに入ったら、彼女らのお弁当はパンと玉葱と塩だったこと
→ しかも分けてくれた・・。(諸々思い図りいつも昼食抜きにしていたのですが、それ以来パンと水は持参するようにしました)
・ タリバンもムジャヒディンも嫌だ・・と言っていた20名のロジ担当チーフのこと
→ これまでに担当したチームの中で一番統率の取れているチームだったのは私の力ではなく彼の人格でしょう。
・ 通訳兼アシスタントがタリバンに強要され石仏爆破の手伝いをさせられた事を辛そうに話してくれたこと
→ タリバンは、指示するだけ。実行は現地の若い男の子たち。
・年配現地コンサルタントさんは会う度におやつと称してポケットから糸くず埃まみれの石みたいに固まったしょっぱいヨーグルトをくれたこと
→ 7年後のヨルダン勤務の際、もっと洗練された形のこのヨーグルトの塊を砕いてソースにするマンサフという素敵な食べ物に巡り合いました。今でも時々作ります。
・「日本人がいる」と聞いて山麓の村から十年以上も前に受けたJICA研修修了書を持って会いに来てくれた年配医療関係者がいたこと → たしか結核予防コースだった。その時はその後JICAに深くかかわる事になるとは思いもしませんでしたが。
国際開発支援・人道支援等って、結局はその国を建てなおしたい・家族の為に働きたいという現地の人々で成り立っているんですよ。結局のところ。
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