釈常昭
先々週の日曜に父と母、兄夫婦と食事に出かけた帰り、正月ぶりに祖父母宅を訪れた。
要介護5になった祖父と老老介護で圧迫骨折をしてしまった祖母を気にかけ、父は毎日祖父母宅に通い様々な手伝いをしている。少し痴呆が入り始めていたため「じいちゃんはもう由実加のこと忘れてるかもしれない」と父に告げられ、リマインドも兼ねつつ、会う度に痩せ細っていく祖父が心配で、顔を見せに行った。
不調があるたび病院で様々な治療を受けてきた祖父は、病院で過ごす時間の窮屈さと虚しさに限界を感じ、在宅診療とデイサービスを中心にここ2年くらいは通院せず、自宅で過ごしていた。相変わらず細い祖父だったが、目の色や力は変わらず、私の顔をしばらく眺め「綺麗になったなぁ」と驚いていた。
日々体調に波はあるものの食欲はあるようで、私が持って行ったパイ生地の和菓子を「千秋庵(のノースマン)みたいだな」と呟きながら頬張る姿に内心ほっとして、「またね」と言って手を振り家を後にした。
その5日後の訃報である。昨日まで鰻を食べていたんだから、みんなびっくりだ。
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生まれは兵庫、育った愛媛から上京し、会社をつくり、祖母と結婚し22歳で父が生まれた。
若い頃は女性遊びもしていたと楽しそうに語っていた。
「由実加の考えていることは分からない」と言われていたけれど、兄と比べて心配や迷惑ばかりかけていた私が美大に行きたいと親に相談したものの全く理解を得られなかったとき、「由実加がやりたいと思う事をしなさい」と背中を押して、説得してくれたのが祖父だった。
生きる上で、気力がとても大事なのだと気付かされた。祖父は人生に後悔がなく、迎えが来るのを待ち望んでいた。2年ほど前から電話で話した第一声が「俺はもう死ぬから」だった祖父が、今年から「達者でな」に変わったとき、心の準備をし始めるきっかけとなった。夜に自宅で息を引き取ったので、会社帰りにそのまま祖父の元を訪れた。まだ声は届いているような気がして。
翌日に3日間関西に飛んでいたがどうにも疲れが取れず、常に眠気が纏っていたのに、葬儀を終えてから、ぱったりとその不調がなくなった。顕在的には理解できていても、初めての親族との別れは、なかなか堪えるものがあった。
遺影は私の中の祖父のイメージよりも少し若い、60代前半の頃の写真が使われた。今の父とちょうど同じくらいの年だ。そのころの父は、今の私と同じくらいの年齢になる。
やりたい事をまっすぐにやれる環境を与えてくれた祖父に、私は何か恩を返せただろうか?また今の父と母、憔悴してしまった祖母に何ができるだろうか?
昨年よりも諸々に余裕が出てきた今、そんな祖父はきっと私が東京にいようが京都にいようが常に見守ってくれていると信じて、自分も家族も穏やかに過ごせる時間と気遣いを大切にしていこうと改めて思った、そんな2023年10月、人生の節目でした。