裏・糸島フィールドワーク『隙』2024.04.27-28
JR学研都市線は京田辺駅。朝6時台とはいえ、通勤に渦巻く人たちで駅のホームはごった返す。
今思えば私が悪かった。2列になって並ぶのが駅のマナーだが、私は一人で並ぶ女性の後ろに回った。真横に並んで2列になるのは、ちょっとバツが悪いというか、こんな中年男性が真横に来たら睨まれるんじゃないかと思った。すると後から来た若い男性が、女性の横に並んだ。足取りも堂々と、並ぶ私を追い抜かす格好になった。
戸惑いと驚きと、その直後にやってくる悲しさと怒りに浸りながら、そうか私にはそういうオーラがないというか、威厳がないから脇から抜かされたんだと思い、何だか自分が少し悲しくなった。威厳がないのか、やっぱり威厳は大事だなと思った瞬間に、そう、五日前の糸島の夜、猪の解体ショー直後の、いみじくも比嘉さんの一言が脳裏に浮かんだ。
ビール片手に上機嫌の比嘉さん、だけどどこか確信めいた、説得力に富んだ一言だった。フィールドワークではその《隙》が大きなイニシアティブになる。その《隙》に人々は寄りかかりたくもなり、何気ない日常の切れ端を少しだけ差し出してくれたりもする。その日比嘉さんは小学生、中学生に声をかけられただけでは飽き足らず、噂では猫にさえ「話しかけられた」らしい。トトロのネコバスじゃあるまいし、いや、でも比嘉さんならあり得る話だなと妙に納得していた。そんなことを思っているうちに、その中年男性はそそくさと、到着した電車に乗り込んでいった。
威厳と隙。果たしてそれは、人間の営みに必要な事なのだろうか。そういうことばかりを気にして生きていた自分がいる。仕事での風格だとか、夫としての威厳だとか。内心、そんな威厳何の役にも立たない、肝心なのは中身なのさ、てな具合で知ったかぶりを発揮することもある。しかしいざ、この日のように抜かされるたりすると、反射的に対抗心が芽生える。生存がかかる、競争がかかる、そんな日常ゲームに浸る日々に、あの糸島の暮らしはそれこそ《隙》を与えてくれたのだろうと思い始める。もう五日にして、あの日の記憶が次々と過去にずり落ちていく。自分が自分でいられるのか、余計なものが削がれているのか、今ココに集中できる場所が糸島なのか。しかしもう五日も経てば、糸島の開かれた空間は日常の骨格に戻される。開いて、閉じての往復の旅。フィールドワークを通じて感じ取った糸島という存在は、日常に戻されたときにどれほどの期間、その開きをこちら側に戻すことができるかどうか。電車に揺られ、窓に映る田畑を見ては、糸島で出逢った喫茶店に向かう道中のことが思い起こされ、パン屋に入ればディスプレイされた商品を支えるお皿の数々に、海辺に佇む陶器のカフェを想起させる。その都度チラつく糸島の在り様に、何とも言えない隙間風を感じながら、日常に悶える。糸島の体験はもしかしたら、そういう落差の象徴なのかとさえ思った。
抜かしていった男性と降りた駅を同じくした。男性の背中を見やりながら「追い抜いてやろうか」と思った自分に、その面倒な自分の思考に、自分が自分じゃないような、これこそが私そのものだとも思いながら、その合間を揺れていた。糸島の体験を日常に滑り込ませるということも、ある意味でこういった、ふと想起される《隙》と日常がこすれ合う瞬間に生まれるのだろうか。フィールドワークの振る舞いにあった「話しかけやすい《隙》」というものもまた、そういう日々の流れにこそあるのではないか。そんなことをブツブツと言いながら、今パソコンと対峙する。
2日目最後のプレゼン資料に書いたタイトル「糸島でつながるということ」の左上に、サブとして書いた「それは前日から始まっていた」が、今回の糸島の実はクライマックスだった。勿論、決して前日しか見所がなくて、本番2日間何もなかったというわけではない。ここが起点になっていたという意味である。パートナーになっていただいた青木さんからの事前情報「どうやら糸島の最近の展開を良く思っていない人がいるらしい」が始まりだった。まるで潜入取材にでも行くのかというノリは、困惑しつつも実にワクワクした。前日入りできた私が夕刻に現場に赴いた際の、あの異様な空間と自身の動揺した心は忘れないだろう。あんなに恐々とドアノブを手に取り、そして開かなかったことへの安ど感に包まれた体験はなかった。開かなかったのなら仕方ない、近隣のお店に行って聞き込みだと入ったお店で、また起点となる出会いがあった。糸島のこと、マスター自身の人生のこと、生きること、地球のこと、そして、愛。ただ1000円くらいの定食を頂いただけで、こんなにボリューム満点なお話に触れている。その最中もそんなことを思っていた。今ここで展開されているこの空間に名前がつかない。フィールドワーク?確かにそうだけど、でもやっていることはご飯を食べていること。代金をお支払いして、お腹が満たされたら店を出る。その通常取引の行為の合間に、その隙間に、どれだけの意味や意義がなだれ込んでくるのかという異様さ。これもまた今思えば、《隙》ということなのかもしれない。本来の、お客としての威厳(という言葉はあまりしっくり来ないが)はそこにはなかった。マスターと私が、それぞれに生み出した《隙》に呼応して、今この長くて深い対話が起こっている現実。この不思議さこそ、フィールドワークという枠に収まらないフィールドワークなのだとしたら、そうかやっぱり、達人の域になれば猫にだって話しかけられるのも合点がいく。
当日、顔合わせもそこそこにフィールドに放たれる私たち。歩きながらある程度の場所まで出向き、途中で道を外れた時に現れたJF糸島の製氷工場付近に辿り着く。今でもあるのが、ここでの後悔だった。革製品のお店を訪問した後だったのか前だったのか、今となってはそれさえも怪しい。ただ、次の場所に行くために、否、もともと考えていた「あわよくば牡蠣食べようよ」作戦(勿論季節外れなのでその構想は瞬殺されたわけだが)のため海岸近くに歩を進めていた中で出逢ったのが製氷工場だった。海岸沿いに製氷工場、まさか海水を汲み上げて?地下水を使って?どうなんだろうと話しながら、高齢男性二人が軽トラのそばで談笑していたのを横目に次の場所に向かう私たち。
そうなのだ。ここで声をかけるべきだったのだ。次の店に、というその過程において、その過程に咲いていた花をみすみす踏みつぶしていたのである。「すみません、ちょっといいですか」この一言が咲かなかった。咲かさなかったのか、咲けなかったのか。どちらにせよ私の選択からは外されたわけで、今もこうしてその後悔があるということが、フィールドワークの成果なのかもしれないとさえ、思うのである。だから、この「しなかった」体験が、次のフィールドワークの《隙》を生み出すと信じている。
店主から聞いた「少し体力あるなら行ってみてください」と言われたカフェに向かう道中は、自分との対話だった。車しか通らない道を一時間ほど練り歩いた。本当に轢かれると何度も思った。ここで絶命したら家族はここに弔いに来るのか、なかなかそれも厄介だぞとか妙な独り言をブツブツと呟いては、目の前にやってくる鉄の塊と、右を向けば絶景な海辺に感嘆する。一体私は何をしているのだ。何をしているか分からないもまた、フィールドワークとしての精度を皮肉にも上げているような気がした。伊能忠敬の心境も、こんな感じだったんだろうか。そんな時代に車なんてないだろ。ここでそんな余計な《隙》は作れない。作ったら「飛ぶぞ」。
最後にまとめたノートに、この危ない道を歩きながら考えていたことを書いていた。
糸島生活を応援するホームページ、そこに載っているキャッチコピーは「きっと満足」だった。今は私、満足ではありませぬ。
裏糸島というテーマ性を持った今回の2日間は、前日からその序曲はサビにつながっていった。そして、焼肉で不意に出会った《隙》という言葉もまた、今こうして俯瞰すればとても大事だったことに気づき、その大事だったものは日常生活ではほぼ皆無だったことを、駅のホームで知らされる。現地で聴いた話の数々は、糸島賛美ではなかった。モノづくりをしたい人にとっては却って人口増加は避けたい事態だった。現に糸島を離れていく人もいる。久しぶりに糸島に戻ってみてがっかりした話もあった。他方で人と関わり、接客こそ我が人生と腹に据えて糸島に住む人もいる。行政が考える「人を集めよう」は、そこに住まう人々の思惑とは案外合致しない。合致するとすれば、自分自身の体現したい人生との照合であり、あくまでもその人が一人、その想いを抱えて糸島にいるというその一点だけかもしれない。にしては、糸島というテーマの単位はあまりにも大きすぎた。であれば裏も表もなく、あるのは人との関係性の中で織り成される、離れたり、近づいたりという距離感の揺れ。その揺れの中でどう生きるかという姿を、私はフィールドワークで観たのではないだろうか。
そして誰あろう私自身に、その揺れはある。《隙》への拒絶と憧れと。「追いつけ追い越せ」の日常に、糸島の《隙》が介入する。ここで起こる揺れこそが、糸島のもう一つの顔なのだとしたら、やっぱり裏糸島は糸島にはなくて、私自身の中にあった。
ラストに記したこの言葉達は、最終日の朝に目をこするながら5分くらいで書いた他愛もないもの。しかしそんな短時間にざっと出したものだからこそ、狙いも気後れも体裁もなく、ただ普通に産み落とされた実感そのものであった。「人とのであり」で終わっている未完の状態を見て自分でもつくづく思う。嗚呼、まだまだフィールドワークやりたいんだなと。踏みつぶした花々に今度こそ出会いたいという意思にも似て。
通勤の朝の、列を抜かされた話を娘にした。「だから電車は嫌なんだよ」と愚痴ったら、娘にこう言われた。
大丈夫だ。糸島体験はこうして生きている。私自身も案外《隙》だらけのようだ。無論、違った意味で。
おわり
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