映画リポート~ヴァイオレットから学んだこと編~
先週の水曜日は少し遠出して博多まで行った。ドルビーシネマというアメリカのドルビーラボラトリーズという企業の最新技術を導入した劇場が、私の最寄りだとJR博多cityのTjoy博多にしかなかったからだ。
日本の新作アニメ映画で初めての作品として『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が放映されると聞き、本作実に3回目(自己最多タイ)の鑑賞をしてきた。
ドルビーシネマ版初鑑賞の感想、そして「社会的距離(ソーシャルディスタンス)」が強く推奨された2020年を生きる私たちに本作が投げかけたことについて、「距離」をテーマに分析してみたい。
ドルビーシネマ初見の感想
結論から言うと京都アニメーションの技術力が高すぎて通常版とあまり違いは感じなかったのが本音だ。しいて言うならキャラクターの輪郭がはっきりして、背景の美しさも相俟って実写映画のような感じがしたことぐらいか。多くの方々の論評にもあったが、画面の黒が強く字が浮き上がって見えるのはその通りで、エンドロールは製作者さんお一人お一人の名前がより鮮明に映し出された。ただそれは絵的なことであり、音響が良いので雨などの効果音や茅原実里さん、TRUEさんの歌声は生で聴いているかのような感覚だった。
ご多聞に漏れず私も初めから最後まで泣かされっぱなしで、特にホッジンズ社長の「おぉばかやろぉおー!!!!」は何回聞いても心振るわされる私の号泣ポイントだ。
分析1~時間的距離~
映画冒頭、伝説のTVアニメシリーズ第10話の主人公、アン・マグノリアの孫デイジーが祖母の遺品から新聞の切り抜きを見つける。そこに写っていた人物こそ、曾祖母に託された50もの手紙をしたため祖母へと送り続けたヴァイオレット・エヴァーガーデンで、彼女の自動手記人形としての活躍を物語る記事だと思われる。
ヴァイオレットとデイジー。生きる時代の違う二人を結び付け、時間的距離を埋めたのがこの「新聞の切り抜き」であろう。新聞社の多くはネットでの配信を行い、国民の多くが新聞を取らない現代において切り抜きやスクラップという言葉はほぼ死語ともいえるかもしれない。アーカイブ版という形で昔の記事を配信しているところもあるが、こんな小さな記事でピンポイントに特定の人物を見つけるのは容易ではない。生前のアンには単純に恩人の記事を残しただけだろうが、期せずして孫であるデイジーにもその女性の存在に気付き興味をもたせたのは切り抜かれて残された新聞紙が果たした大仕事ではないだろうか。まあ一尽の風に飛ばされてしまうのだが。
そしてデイジーの時代には財団の博物館になってしまったC.H.郵便社の存在だろう。切手の存在がなければデイジーが直々にエカルテ島に赴きヴァイオレットの足跡を辿る事はなかったと思う。これらの資料もまた過去と現在という時間的距離を埋めたと考える。ペーパーレスの進む現代ではあるが紙の資料をきちんと残し展示することの重要性を感じずにはいられなかった。
分析2~物理的距離~
ライデンにもついに電話が普及し始めた。映画前半ではアイリスが自動手記人形としての仕事を奪われると危機感を露わにするなど、彼女たちにとっては「いけ好かない」存在として扱われていたが、手紙にはない速達性でもってユリス少年とリュカ少年の物理的距離を埋める役割を果たし、アイリスをも感服させる働きを見せる。
ギルベルトを探しにエカルテ島に旅立ったヴァイオレットとホッジンズのもとにユリスの危篤が知らされる。ユリスが依頼した親友リュカへの手紙を代筆できていないヴァイオレットはライデンへの帰還を望むが3日以上かかる道のりを戻る時間はもう残されていなかった。
本作もう一つの通信機器モールス信号でのやり取りでヴァイオレットはユリスの病室とリュカを電話で繋ぐことを提案する(描写が無いので憶測なのはご容赦を)。ベネディクトとアイリスが必死に電話線を伸ばし、電話を持っている家庭に頼み込みというのが時代を感じるが、手紙にはない速達性でもって二人は最期に話すことができた。勿論現代ならば二人ともスマホで話せてしまうところだろうが、手紙では届けられない生の声を物理的に離れた中で届けられる電話の良さが描かれていたのではないだろうか。
分析3~心の距離~
反抗期かつ闘病中のユリスにとって両親・弟の心配は鬱陶しくもあり、心の距離は遠くなっていた。それを埋めるべくヴァイオレットが代筆した手紙。ユリスの死後、両親は息子の本当の気持ちを知り涙し、弟は大好きな兄が本当に愛してくれていたことに嬉しさを爆発させる。家族の心の距離を埋めたのは間違いなくこの手紙だと思う。
そして忘れてはいけないのは、ヴァイオレットとギルベルトだ。元上官として幼いヴァイオレットを戦場に駆り出したことを悔やみ、ギルベルトは断固として彼女に会おうとしない。そこでヴァイオレットはエカルテ島への道中したためた手紙をギルベルトに贈る。それを読んだ彼の秘めた想いが爆発した時、感動の再会、最高のフィナーレへと向かうのだ。石立太一監督のいうヴァイオレット肝いりの最後の一言がギルベルトとの心の距離を埋めたのである。
分析4~本当に人と人とを結ぶものとは~
もし『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が現代の物語だったら・・・。代筆は手書きできなくても発声でできてしまうし、医療機関でも携帯が使えるからユリスとリュカもLINEでやり取りをするだろうし、ギルベルトの居場所はエカルテ島の学校のホームページでも調べれば見つかっていたかもしれない。
人と人との距離が離れていてもパソコンや携帯一つで簡単に情報を知り得たり、顔を突き合わせて会話できたりできる世の中になり、コロナ禍にあってはそれが推奨されてきた。しかし正確な情報が得られないし、オンラインの対話ではどうにも寂しさが残ってしまう。この感覚は何だろうか。
この作品の肝ともいえる本当に人と人とを結ぶものとは、やはり自分の足で会いに行くこと、訪れることだったように思う。本作ではヴァイオレットは一縷の望みにかけてエカルテ島に向かった。だからこそギルベルトに再会でき、思いを伝え抱き合う事ができた。
デイジーもライデンシャフトリヒやエカルテ島に自らの足で向かい、博物館や現地の人々の話を聞き、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという女性の足跡を深く知ることができたのである。
これまでの物語でもヴァイオレットは代筆依頼されるとどんなに遠くても必ず依頼者のもとに出向き、その人のことを深く知り、宛先となる人物のことを深く知り、その人が置かれた自然環境、家庭環境、社会環境を深く知ろうとしてきた。ヴァイオレットにとっては「愛してる」の意味を探るために必死で旅を続けていたと思うが、私はそうして人々の暮らし、生き様、土地土地のことを学び取りながら一つ一つの手紙を素晴らしいものに仕上げ、一人の自動手記人形として成長したのではないかと感じる。本当に知りたい事柄がある時、本当に伝えたい思いがある時、人はどんなに遠くとも自らの足で会いに行き、訪問すべきである。「手紙」が題材の物語の最後に私が教えられた結論だったように思う。
結び
ここまで読んでいただいてありがとうございました。京都のみやこめっせで手を合わせてから約1年。石立監督をはじめ多くのクリエーターさんのご努力で度重なる困難を乗り越え、ヴァイオレットの物語をスクリーンに映し出してくれたことを思うと感謝の気持ちしかありませんでした。
今回は「距離」をテーマに長々と論じてみました。情報通信技術の発達で便利な世の中ですが、やっぱり直接会えない寂しさがどこか残ってしまうのも事実です。
物理的距離を埋められても心の距離が埋められない。
皆さんの中にもそう感じられる方がいるのではないでしょうか。
不思議なことに私が鑑賞を終えてすぐに「今年は年賀状の売れ行きが例年以上に高い」とニュースがあっていました。「ヴァイオレット効果」という事はないと思いますが、自筆で思いを伝えることで人と人との絆を繋ぎ止めることの重要性に気付かされた方が多いのかもしれません。
「手紙だと伝えられるのです。素直に言えない心の中も。」
「本当に伝えたいことはできるうちに伝えた方がよいと思います。」
ヴァイオレット・エヴァーガーデンという一人の女性の一代記は完結してしまいましたが、彼女の想いはいつまでも私たちの心の中に残り続けていくと思います。