どうしたら傷つかずに生きていけるのだろうか
あともう少しで仕事納めだ。というところで、仕事で変なミスをしてしまった。そして、そのミスが自分の知らないところで翌日には大きく膨らんでしまって。
職場でも中堅のポジションになるというのに、いまだにこんな失敗をしてしまった自分に絶望してしまった。(もちろん、1番絶望したのは、これまで信頼してくれていた苦情を言ってくれた方々なのだけれども。信頼を崩してしまった自分に腹が立って仕方なかった。)
苦情と、要望を真摯に受け止めて、なんとかその後の処理を終えたけれども、その後、自分の心(というか頭)の中にドロドロとした思いが何日も澱んでいた。
「こんな仕事辞めてしまいたい」「自分には向いてないのだ」「もっと自分の人生を大切にしたい」「家族以外の人と関わりたくない」。ひたすら未来でするであろう失敗と、自分が傷つくことに対して臆病な気持ちになっていた。
失敗は財産だ!成長するには不可欠だ!
と失敗することに前向きでいられていた自分が、なぜ今回の失敗を引きずっているのだろうかと考えた時に、
『子どもがいないあなたには親の気持ちはわからないだろうけども…』
的なもの言いをされたことが、ずっと引っかかっていたことに気がついた。
6月末の流産。『私だって親になりたかった。』『産んで育ててあげたかった』と、悲痛な叫びをあげていたのだ。
妊活を再開して、9月には卵管造影検査をした。(けっこう痛かった。)
ゴールデンタイムと言われている半年間に、授かる気配がなく毎月容赦なく訪れるリセット。2月には卵巣に穴をあける手術が予定されている。
『いいよなぁ、自分の子どものことばかり考えられる人たちは』と不貞腐れた気持ちになってしまう。
幸い、上司や同僚が励ましてくれて、話を聞いてくれた元同僚からも、あたたかい言葉をいただいた。
仕事やめたい。といつもいつも思っているのだけれど、仕事をやめるということは、この仕事を通して出会うことができた優しい上司や同僚との関係を切るということにもなるのだ。
(友人や知り合いとして繋がることはできるだろうけれど、みんなそれぞれが日常に精一杯だから、きっと疎遠になるのは目に見えている)
生きるって難しいなぁ。
悲しみを最小限にして、生きていくことはできないのだろうか。
日本に、そして、世界にたくさんの人が生きているけれども、その一人ひとりが鉛のように重い悩みや痛みを抱えて生きているのだと考えると、息が詰まりそうになる。
30歳になった私は、『いかにご機嫌に生きていくのか』『後悔しないように生きるか』にこだわるようになった。亡き我が子が、人の命の終わりが、いつどんな形で訪れるかわからないということを教えてくれたからだ。
悩む時間、落ち込む時間はもったいない。だけれど、気持ちの整理にはやはり時間がかかってしまう。
こんな湿っぽい気持ちで迎えた年末。
昨日、旦那が職場で発熱。病院受診の結果、コロナ陽性。(私は無症状で元気である。濃厚接触者となったので、職場からは年末いっぱいは自宅待機を言い渡された。)
高熱に苦しむ旦那を看病しながら、ゆっくりと流れる時間を噛み締めている。
『少し、自分も休まなきゃだなぁ』
コーヒーを淹れて、我慢していたネイルをして、落ち着きと自分らしさを少しずつ取り戻している。
傷つかずに生きていくことは、きっと無理なんだろうけど、『まぁ、なんとかなるさ』って受け流せるたくましさが、自分に身につきますように。