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人魚の涙 1
1.
この、ゆっくりと時間が流れる海辺の街で暮らし始めて、二週間が経った。
私は、いつものように早朝の海岸を裸足で歩いていた。
初夏の空気は爽やかで、足裏に触れる濡れた砂のぬるりとした質感や、五月のまだ少し冷たい波がくるぶしをさわさわと撫でる肌触りも心地よかった。
遠い山の上から太陽が顔を出して空が赤くなり、そしてだんだんと青くなるのを見届けたころ、少し離れた波打ち際に、キラリと光るものが見えた。
その小さな輝きは、私を呼んでいる様だった。
「何かしら?」
歩み寄って拾い上げてみると、それは薄紫色の透き通った雫形の塊だった。ガラス細工のようだが、表面はややぺたぺたとしている。
柔らかい光と目に見えないエネルギーが、その中でゆっくり循環しているような、神秘的な輝きを湛えている。
思わず見入ってしまったが、ふと、この何か分からない物を素手で触っても大丈夫なのだろうか?と心配がよぎり、我にかえった。
その瞬間、足元から微かな声が聞こえた。
「ちょっと、ちょっと!
おいらの店の商品を、勝手に触らないでくれよ」
見下ろすと、右足の親指の先で、小さなヤドカリが、赤いハサミをゆらゆら振り上げて、こちらを睨んでいる。
私は、人間以外の生き物と、もちろんヤドカリとも、会話をするのは初めてだったけれど、何故か驚きもせず、この状況を受け入れていた。
「ごめんなさい。
これ、あなたの物だったのね?」
「あたぼうよ!
泣き立てほやほやの人魚の涙を持っている奴なんて、この広い世界でも、おいらしかいないさ!」
「これは、人魚の涙なの?
あなたは人魚の涙屋さんなの?」
私は、ヤドカリの声がもっとよく聞こえるように、ゆっくりとしゃがんだ。胡麻粒ほどの小さなヤドカリの目と、視線が交わった。
「そうさ、それは北の海の人魚から、たった今もらって来たばかりの人魚の涙。
おいらは、珍奇な物を仕入れては売りながら、世界を旅するヤドカリ商店さ!」
ヤドカリは、得意気にハサミを振り回しながら喋った。
「お前、それが欲しいなら売ってやってもいいぜ。
何かお前が持っている珍しい物と交換してやるよ」
どうやら、彼は、物々交換の商売をしているらしい。
「ありがとう。とても綺麗だから、ぜひいただきたいわ。これは、乾かしてお部屋に飾っておいても良いのかしら?」
「はあ?
お前、人魚の涙の使い方も知らんのか?
全く、人間って奴は手が掛かる生き物だぜ」
随分と馬鹿にされているが、私は、このヤドカリがなんだか可愛く思えてきた。
「人魚の涙は、鮮度が命。乾かすなんて、もっての他だ。
欲しいなら、さっさと食え!
とにかくすごい解毒剤だ。一滴の涙で、お前の心と体に溜まった“嘆きと悲しみ“を全て排出してくれるぞ」
乱暴な、江戸っ子のような言葉遣いの、ヤドカリである。
「お前には今これが必要だから、おいらとここで逢ったんだ。
買っておいて損は無いぜ」
思いがけない展開になって来たが、“嘆きと悲しみ“と言われて、どきりとした。
私はそれに耐えきれなくて、一人この街に逃げてきたのだった。
この人魚の涙を、試して見たくなってきた。
「私は、何をお支払いしたら良いのかしら?」
「そうだなぁ。そういやあ、人間の爪は、特別なお茶になるって話を聞いたことがある。これを、お前の爪と交換してやろう」
「それを言うなら、爪の垢を煎じるって事じゃないかしら?」
「つべこべうるせえなあ。
ほら、おいらのハサミでお前の爪を切ってやる。
手を出せよ。」
「そうね。きっと爪には爪の垢も付いているから、大丈夫だわ。
痛くしないでね?」
私は、素直に両手をヤドカリに差し出した。
ヤドカリは、大きな方のハサミで、チョキチョキととても器用に私の爪を切った。
あっという間に、十個の白い三日月ができた。
「ふむふむ、爪のお茶とは、なかなか面白い商品だ。
ところで、これはどんな特別なお茶になるんだい?」
私は、吹き出しそうになるのを堪えた。
「あら、物知りのあなたにも、知らないことがあるのね?」
全く、手の掛かるヤドカリだぜ、と揶揄いたかったが、我慢した。
「爪の垢を煎じて飲むと、爪の垢の主の性格がうつると言われているのよ。
そうねえ、私の爪のお茶を飲んだら、多分とても我慢強くなると思うわ」
「飲んだら我慢強くなる、人間の爪のお茶か。
ふむふむ、なかなか面白いじゃねえか」
ヤドカリは、コクコクと満足気にうなずいた。
「それじゃあ、約束通り、お前に人魚の涙をやるよ。
すぐに、食べてみるといい。
はっきり言って美味くはないが、無理矢理にでも、全部飲み込め」
そう言いながら、ヤドカリは、背中に背負った巻貝の中に、私の爪をしまった。
「ねえ、もしかして、その中に人魚の涙も入っていたの?」
「あたぼうよ。
こんなに大きな物、他にどうやって運ぶって言うんだい?」
「でも、人魚の涙の方があなたのお家より随分大きいでしょ?
とてもその中には、入らないと思うわ」
「はあ?
お前、ヤドカリの家のことも知らんのか?」
小さすぎてよく見えなかったけれど、ヤドカリの眉間に皺が寄っている様だった。
「仕方ない、教えてやろう。
この家の中は、お前たち人間が三次元だの四次元だのと言っているつまらん物理学とは全く違う、もっと自由な物理法則が支配する世界なんだ。
だから、どんなに大きなものだって、おいらは自由に入れることができるのさ。
ついでに教えてやると、そのおかげで、この家とおいらは、時空を超えて自由に移動ができるんだぜ」
私にはその物理法則はわからなかったけれど、妙に納得してしまった。
「へえ、すごいお家なのね」
その自由な物理法則で、今すぐヤドカリが時空を超えて消えてしまうかもしれないと思うと、とても寂しくなった。もっと一緒に居て、ヤドカリに馬鹿にされたかった。
「ねえ、またあなたに会いたくなった時は、どうしたらいいの?」
「はあ?
本当に、お前は何も知らんのだな。
ヤドカリ商店を呼ぶ方法なんて、無い。
しかし、もしもお前に必要な時には、おいらは必ず来てやるから安心しな」
ヤドカリは、子供を寝かしつける様にぽんぽんとハサミで私の親指をたたきながら言った。
「だがな、おいらの見立てでは、お前はもう大丈夫だよ。一週間すれば生まれ変わる。もし何かあったら、とにかく沢山水を飲め。
じゃあな、あばよ!」
ヤドカリは、その言葉だけを残し、素早く砂に潜って一瞬で消えてしまった。
私は、波打ち際にしゃがんだまましばらくぼうっとしていたが、スカートの裾が濡れている事に気付いて立ち上がった。
まるで何事も無かったように、いつもと同じ、朝の海岸に立っていた。足元で、寄せた波がちゃぷんと優しい音で砕けた。
私の手の中では、薄紫色の人魚の涙が輝いていた。
(つづく)