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履歴書④ ひつじに訪れた転機・・・

スナックのバイトはずっと続けながらも、昼間のバイトは相変わらず転々としていた私ですが、やっと念願のおしゃれなカフェで働ける事になりました。そのお店に入った事が色々な意味で今後の運命を大きく左右する事になりました。良くも悪くも。。。。いや、良かったと思います。

念願のお洒落なカフェで働く事になった

私はずっと、お洒落なカフェで働いてみたかった。勉強とか向上心とかそういう前向きな意味ではなく、ただ表面的な素敵さに憧れていた。そのお店は求人雑誌で見つけた。鴨川沿いにあるとても素敵な雰囲気のカフェで、面接も無事に通りいよいよそこで勤務する事になった。

そのお店はフレンチレストランの姉妹店のカフェでお店も数十メートルしか離れていなかった。オーナーは当時50代半ばくらいの女性だったのだが兎に角変わり者で陽気だったかと思えば、突然キレるような腫物のような不器用な人だった。

オーナーといってもお店に立ち自ら接客もしていたので、従業員は常に気を使いながら一緒に仕事をしなくてはいけないような環境だった。そんなお店だから当然、人が定着せず入れ替わりが激しかった。

スタッフの中では私はまだオーナーから好かれていた方だったと思うが、それでもしょっちゅう怒られていた。「あんたな~!!」「早よしよし!」「何してるんへ(え)!」は何度言われたか知れない。

オーナーはフレンチレストランをやっているだけあって、大のグルメ人で味にうるさく、ワインに詳しい人だった。なので、仕事終わりによく色々な美味しいお店に連れて行ってもらい、美味しいワインとは、フランス料理のすばらしさ、美味しさなどオーナーから色々教わった。

おかげで、私もその頃から「食」に興味を覚え、今まで何となく食べていた料理やお菓子も色々考えながら食べる癖がついた。

相変わらず読書は好きでオーナーの影響もありフランスの事やフランスの歴史に興味を持ち始め、それに関連する本をよく読んでいて、フランスへの憧れが膨らみつつあった。

働き始めて間もないころ、姉妹店のレストランのシェフがオーナーと喧嘩をし、辞める事になったらしかった。入りたてだった私は「そうなんだ~」ぐらいにしか思わず他人ごとに感じていた。それと同時にレストランも休業する事になり料理人の人達が居なくなると、カフェで出していたサンドイッチの具に使う自家製のスモークサーモンや自家製ハムやタップナードが出せなくなる為、オーナー自ら辞める前の料理人にそれらの作り方を教わっていた。大変だな~とこれも他人ごとに見ていた。

そんな中、カフェのケーキを焼いていたメインの女の子も辞める事になり、少しだけ経験のある私がケーキを作る事になった。そして一応調理師の学校を出ているという事で、今までオーナーが作っていたサンドイッチの材料の仕込みも私が作る事になった。

作るものはそれ以外に、ランチで添えるスープやクルトンも自家製だし、グラタンなどもあった。既製品を使わないというこだわりがあった為、もちろんホワイトソースから作っていた。仕事は仕込みだけではなく、もちろん接客からドリンクを作るまで全ての作業をやっていた。

寒くて薄暗い厨房で一人、自家製ハム用の5kgの豚もも肉の塊の筋を取り除いたり、サーモンの骨抜き作業をしながら、お洒落なカフェで働く事とは・・?と想像していたような優雅でお洒落な雰囲気な事を出来ぬまま仕事をこなした。

任されたからには、何としてでもやり遂げたかったし、仕込み作業は一人で没頭出来る為、意外に苦では無かったが仕込みに時間がかかりすぎる!遅い!としょっちゅう怒られていた。自分が不慣れなのもあるが、こんな量の仕込みを一人でやっているのだからそんな事を言われても・・・という思いもあった。

その頃は昼間、カフェでへとへとになったあと夕方からスナックへ出勤していたから若さとはすばらしい!と思う。今はそんな働き方出来ないし、やりたくない。

休みの日はお洒落なカフェ巡りをするのが好きだった。そんな中、ふと気が付いた。内装が素敵なお店は沢山あるけれど、ケーキがとびきり美味しいと思えるお店は無いなぁと。そして今の自分も美味しいと思えるケーキを満足に作れないし知識も乏しかった。もしも、自分がお店をやるなら内装も素敵で、出しているケーキもケーキ屋さんと同じくらいのレベルのを出したいな、と何となく思ったりしていた。

けれど、自分がお店を作るなんて事は経験も知識も、もちろんお金も無さ過ぎて到底現実的には考えられなかった。

日々、自分なりに精一杯働いてはいたが、相変わらず辞める人は多くオーナーのその独特の性格により、さすがの私も肉体的にも精神的にも疲れ切ってきていた。そして、あぁ辞めたいな、という気持ちが次第に大きくなっていった。

ある日、いつもの美容室にカットに行った時、私の担当をしてくれている店長さんに「なんで美容師になったんですか?」と聞いた。すると「高校卒業して、美容師の専門学校に行って美容室に就職したんだけど、仕事が辛くてすぐに辞めたんですよね。でそのあと他の美容室にも入らずフラフラ適当にバイトとかしてたんですけど、昔の知り合いとかにたまに会って今なにやってるの?って聞かれて堂々と美容師やってる!って今の自分じゃ言えないな~って思って、そこからちゃんと美容師って言える人になろうと思って今に至りますね~」というような事を話されて、はっとした。

これは私にも当てはまる事だ、と。専門学校を出て流れ流れてカフェで趣味の延長のようなレベルのケーキを作っている私は堂々とパティシエですと言えないな、と思ったのだ。堂々とパティシエですと言いきれる人になりたいかも、と思った。

辞めたい気持ちは募る一方ではあったが、私が全て仕込みをしているという状況だった為、最初は「辞めます」などとても言い出せる勇気はなかった。今思えば、辞めた所で代わりなんていくらでもいるのに、抜け出せられない洗脳に近い状況に陥っていたと思う。

それでも、いよいよ自分の中で精神的にも耐えられないような状況に追い詰められ、どんな理由があれば辞めやすいだろうか?と悩んだ結果、出てきた答えは「フランスにワーキングホリデーで行く」という事だった。海外で暮らしてみたい、という漠然とした憧れの気持ちは小学生くらいの頃からあった。

その頃の私は、18世紀のフランス革命や16世紀頃のパリの歴史にはまっていて、色々な本を読み漁り、すっかりフランスに恋焦がれていて、歴史上の人物が見たり歩いたであろう場所に実際行ってみたい!!などという気持ちが高まっていたのと、ワーホリビザは30歳までしか取れないという事があった。当時、私は26歳だったので少し焦りもあった。辞めたい事を伝える前に、ワーホリビザの申請をしてしまった。ビザを取りさえすれば、さすがにオーナーも引き留められないだろうと考えた。ビザ申請は何回も落ちる人もいると噂に聞いていたのに、運よく一回目で合格してしまった。勢いだったが、ついに私はフランスに行く事になってしまったようだ。

ビザを取ったという報告と共に意を決して「辞めさせてください」とオーナーに伝えた。表向きの理由としてはフランス菓子を本場で学びたいのでという事を言った。すると、第一声は予想外の言葉だった「すごいやん!」と言われ拍子抜けした。

ただ、その時点では受け入れ先のパティスリーがある訳でもなかったので「あんたそんなんで大丈夫なん?行っただけで終わって帰って来た所で意識だけ高こうなって帰って来るようになるで」と言われたが、どうなるかなんて誰にも分からないし失敗する事を想像だけで悩んでもしょうがないので「頑張って探します」と言った。あてなど何ひとつ無かったが、もう行くしかないのだ。

渡仏するにあたって、一番の問題は言葉だった。英語なんて全く出来ないし、ましてやフランス語なんてボンジュールくらいしか知らない。という訳で出発前の3か月間、フランス人男性の先生のフランス語教室に通ったりした。

そして、渡仏後の一か月間は語学学校に通う事を決め、学校の紹介でホームステイ先なども手配してもらった。この準備だけでも確か35万くらいはかかり、少ない貯金が大きく減るのはかなりの痛手だったが、当時の自分が思いつく唯一の方法だった。

その間、カフェでは新しいスタッフをむかえ、辞めるまで引き継ぎ作業をした。いざ辞めるとなるとスタッフなど、どうとだってなるのだ。自分が居なくなったら皆に迷惑をかけるのでは!と思いがちだがそれは案外うぬぼれだと思う。

5年間働いたスナックくるみの人達ともお別れになるのはさすがに寂しかった。私を娘のように思ってくれていた常連のMさんからは「フランス行ったら5年は帰って来るなよ!」と言われ、「ポン・ヌフの下で待ち合わせような!」などと冗談を言って別れた。

私がくるみを辞める事を伝えた時に、ママの女優さんから「実はね、私たちのお店ももう閉める事になったの」と言われびっくりした。という事は京都に帰ってきてもこの人達と出会える場所はもう無いという事なのか、と思うと寂しさが増した。それ以来、くるみ関係の人にはほぼ会っていない。少し前、ふと思い立って座長のナカグチさんをネットで調べると数年前に亡くなったとの記事を見つけ驚いた。まだお若かったはずなのに。百万遍の近くにあった劇団くるみ座の建物があった場所も今は新しいマンションが建っているとの事だ。

フランスへ出発する前に青春時代の7年間を過ごした大好きな街、京都ともお別れし荷物と共に鳥取県の実家へ引っ越しをした。フランスに知り合いも頼る人も全く居なかった為、カフェのオーナーが以前お店で働いていた子で、今パリのソルボンヌ大学に通っている子がいるから、とりあえず着いたらその人に連絡を取ってみなさいと紹介してもらった。お別れの時、オーナーからカードをもらった。そこには一言「期待してまっせ!」と書かれていた。いかにも不器用なオーナーらしい一言だった。とても濃密なカフェでの日々だったので数年働いたように感じたが、数えてみると1年半くらいしかいなかった。

そして、いよいよフランスへ旅立つ日が迫っていた。教室に通ったもののフランス語は全くしゃべれる気がしなかった。

つづく・・・



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