履歴書⑤ひつじ、花の都パリに上陸
辛かったバイト先から逃げたい一心で、勢い余ってフランスのワーホリビザをとってしまった私。働く当てもないままにフランスへ旅立つ日がついに来てしまいました。
憧れの町パリへ
日本から旅立つ日、鳥取の両親が出発の関空まで見送ってくれた。出発の時、母と私は不安と寂しさで京都で一人暮らしをする時よりも泣きながら別れた。
パリへは専門学校の研修旅行で行ったことがあったのだが、一人で海外へ行くのは初めてだった。搭乗手続きを無事に済ませると、いよいよこれから一人で言葉もしゃべれない国で暮らすんだ!と思うと悲しんではいられなかった。
そして12,3時間のフライトが終わり、ついにシャルルドゴール空港に到着した。荷物も無事に受け取りいよいよ空港から街へ出る時まず思ったことは「明日からどうしよう」だった。
語学学校の入学は一週間後だったので、最初は北駅近くの安ホテルに数日滞在する事になっていた。パリまでたどり着けるのか不安だった為、空港からはタクシーに乗った。フランス語教室に通ったものの全く言葉が出てこなかったのでホテルの住所を運転手さんに見せて何とか行先を伝えた。
ホテルに無事到着し、チェックインも何とか出来、部屋に入るととりあえずほっとした。とても狭い部屋で窓を開けると小さな中庭を挟んですぐ隣はペンキが剥がれ落ちたような壁のアパートだった。どこからともなく人の会話が聞こえる。フランス語で!
緊張が一気にほぐれ、私は歓喜に満ちていた。ついに夢にまで見たパリに来たんだ!と。その時は仕事を探す事などもうどこかに行っていて、私は早く街歩きをしたかった。歴史小説やフランス革命の本などを読んで行ってみたい場所が山ほどあった。
到着した日はとりあえず、ホテルの近所をぶらぶらしてスーパーで食料を買ったりした。相変わらず言葉は全然出てこないし、レジの人の冷たすぎる態度に心が折れそうになったが、私が外国人だからというわけでは無く全員に同じ態度なのだという事が分かってからは、レジの対応はそういうものだ、という事で落ち着いた。むしろ日本の接客の丁寧さが異常なのかもしれない。
安ホテルに泊まるといつも経験する事は、長年使っているせいかベットのマットレスが一部ぽこっと凹んでいるため、端っこの方にに寝返りを打ってもコロッとまたその凹みに体が戻ってしまう。この凹みに今まで何人の人が身を包まれたのだろう?と考えてしまう。
翌朝、もう気分は観光客だった。ホテルの朝食はクロワッサンとオレンジジュース。その頃の私はコーヒーがあまり飲めなかった。部屋に戻ってメトロの乗り方や行先へのアクセスをチェックして出発した。
専門学校の研修旅行で行った時は冬だった為、人々も何だか陰気で暗く寒い物悲しいイメージしかなかったパリだったが、今回到着したのは5月の中旬頃で、天気も晴れてとても清々しく人々も陽気に感じた。こんな雰囲気になる季節もあるのか、と新たなパリの一面を知れてとても嬉しかった。
一番最初はどこへ行ったか覚えていないが、多分マリーアントワネットが幽閉されていたコンシェルジュリーという牢獄など行った気がする。パティスリー巡りなどは一切しなかった事は間違いない。
3日目辺りには早速、郊外まで足を延ばしベルサイユ宮殿へ行きプチトリアノンなどを見て回った。この頃はもはや一人という不安などは全くなく、楽しくて、毎日わくわくしすぎて嬉しくてしょうがなかった。
マレ地区からモンマルトルまでひと通り気になる場所を散歩しパリを謳歌していた。
そしていよいよ、学校の入学日がせまりホストファミリーの家へ行く日が来た。居心地のよかった安ホテルともお別れするのが名残惜しかった。
ホストファミリーの家はナポレオンの遺体が安置されているアンヴァリットの近くだった。重いスーツケースもあった為、ホテルからはまた住所見せ作戦でタクシーで向かった。たどりついたアパートは安ホテルの辺りとは違い高級感ある地域だった。日本人の私から見たその建物はまるでお城のようでドキドキしながら、アパート一階の入口にあるホストファミリーの名前の書かれているチャイムを鳴らした。
すると「ウィ」と声が聞こえた。私は「ボンジュール」までしか言葉が出ず、そのままオロオロしていたら、ホストファミリーの方はどうやら今日から来る日本人だと分かったようで、下まで降りてきてくれた。
すこしぽっちゃりした上品なフランス人マダムが笑顔で迎えてくれた。住まいは確か6階くらいだったような気がする。おそらく築100年以上はする建物だと思うがエレベータ付きだった。家の中もとても広く綺麗で「パリの中流家庭」といった雰囲気だった。
ホストファミリーはマダムと14歳と17歳の娘さんの3人暮らしだった。マダムはフランス人だが娘さんは2人ともアジア人で、マダムが養子として迎えたらしく娘さん同士も血は繋がっていないようだった。旦那さんとは離婚したらしかったが、たまに家に白人男性が来ていて娘さん達と親しげにしていたからおそらくその方がマダムの元夫だったのかな?と思う。
私には8畳くらいのとても素敵な部屋が与えられた。到着すると、洗濯物のルールや台所の使い方などひと通り簡単な仏語と英語で説明してもらい、学校への行き方なども教わった。
初めての夜、私は生まれて初めてフランス人の作る家庭料理を口にするのだ!と楽しみにしていた。台所に呼ばれて行くと一瞬固まってしまった。そして、私はきっといじめに合っているのだ!と思った。
その日のメニューはお皿に大きめのハムが一枚とバターで炒めた生米(ほぼ生)とボールにサラダとバケット。以上だった。こんな量絶対にありえないし米は生だし、信じられなかった。しかもその日は娘さん達は居なくて、マダムも食事をせず私一人で食べたのだった。
意地悪をされているかと思っていたのだが、その後そのような食事は毎晩続いた。娘さん達と一緒に食べる日さえも。その頃の私はフランス人は美食家なイメージでボリューミーな食事をするものだと勝手に思い込んでいたのだが、どうやら皆がそうとは限らないらしく私のホストファミリーのマダムはおそらく料理自体あまり好きではなく、そしてダイエット中との事だったので余計に質素だったようだ。
ただ、嬉しかったのは滞在していたちょうどその季節はホワイトアスパラガスのシーズンでムッチリとした生のホワイトアスパラガスをたっぷりと食べられた事だ。塩ゆでしただけなのにうま味たっぷりで本当に美味しかった。
あとはマダムはロワール地方出身だったので、いつもロワール産のワインを飲ませてくれた事とデザートに色々なチーズを食べさせてもらえた事だ。シェーブル(ヤギのチーズ)を初めて口にした時は吐き出しそうになったが。。。それまで私はチーズがとても嫌いだったのだが、フランスで本物のチーズの味を知り大好きになってしまった。チーズが嫌いなのではなく日本のプロセスチーズが嫌いなのだ。
そしていよいよ、1ヶ月間通う語学学校の初日は明日に迫っていた。
つづく。。。