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"スイカになりたい"

保育園の頃、七夕の短冊に書いたねがい。

"スイカになりたい"

*

2日前、ふと、コレを思い出して、

なにをおもって、このねがいなのか、

子どものわたしの、真意、がきになった。

*

そして、今朝、ふと、

幼いわたし、それこそ保育園の頃ぐらいの、

ゆみこちゃん→ 『みこ』が、

わたしの中に、ひょっこり、出てきて。

おはなし、してみた。

*

みこは、今のわたしも、だけど、

スイカがだいすきで、

自分がかんじた、しあわせ、を、

自分がスイカになることで、

だれかにも体験してもらいたい!

って、おもったみたいで、

でも、

みこがスイカになったら、

みこは、だいすきなスイカ、食べられなくなるよね?

ってきいたら、

あっほんとだ、みたいな反応をしながら、

それでもいいの、って、

みんなのえがおがみられるなら、

みんながしあわせなのがみられるなら、

それでいい!って。


ごきげんで、言うんだよ。それを。


いまのわたしからすると、

みこのしあわせは?どうなるの?

っておもって、きいてみる、そしたら、

みんなのしあわせが、みこのしあわせ。

って言う。


・・・なにそれ。


なみだでてくるじゃん。


なぜか、すごく、なけて、なけて、

なんの、感情なのか、わからない、けど、

あんまりにも、天真爛漫に、まっすぐに、

そんなことを言うから、

みんなのしあわせが、みんなが笑ってるのが、

自分のしあわせ、

だから、自分は、自分のだいすきなものを食べられなくなってもいい、って、

そんなの、ある?


しかも、食べられちゃうんだよ、



食べられたら、みこはいなくなっちゃうんだよ?

って言ったら、

きょとんとして、すこしかんがえて、

だいじょーぶ!みこは、そのひとのなかで、いきつづけるから、

そのひとと、ひとつになる、からだをつくるでしょう?たべものは、

それに、おいしかった、っていうきおくで、みこはそのひとのなかにいられるし、

もし、タネをまいてくれて、実がなったら、みこの分身がたくさんになって、

もっとたくさんのひとを、しあわせにできるよ!

って。言うんだよ。


・・・・・・


はなしをすればするほど、みこのおもいや、かんがえを、きけばきくほど、

そのピュアさに、まっすぐさに、

それが、いまのわたしには、刺さりすぎて、

かなしいのか、なんなのか、涙が出てとまらない。

*

そして、またふと湧いてくる、


もし、みこがスイカになったのを食べたひとが、よろこばなかったら?あんまり、しあわせそうじゃなかったら?みこは、どうかんじるの?どうするの?

ってきいてみた。

みこは、はじめて、かなしそうなかおになって、

それは、かなしいな。ざんねん。だけど、そのひとがよろこべなかったのは、みこがわるいから、みこにできることは、なんでもするかな。

って言う。


"そのひとがよろこべなかったのは、みこがわるいから、みこにできることは、なんでもする"


心底、やめてくれ、と思った。

そんなふうに、自分を否定するのは、自分を責めるのは、ごめんだと、

そんなこと思わないでよ、って。

よろこんでもらえるように、できることは、なんでもする、

なんて、そこまでするひつよう、ないよ、

ないから、そんな自己犠牲的に、自分をつかうのは、ほんとうにやめて、って、

かなしくて、愕然とした。


みこはわるくないし、そんなことしなくていいんだよ?くみあわせによるんだし、、

って言ったら、

うん。わかってるよ。みこも、そのひとも、わるくない。しかたない。そのひとにとっては、みこのスイカはおいしくなかった、それほどよろこべるものじゃなかった、くみあわせだって、それだけだって。

だけど、みこは、やりたいんだ。ひとがよろこぶのがすきだから、じぶんにやれることは、なんでもやってみたいんだ。

って言う。


そこで、

そうか、わたしのエゴだな、とおもう。


自己否定や自分を責めるなんて、しないでほしい。

でも、それも、みこの自由。

みこは、わるい、ということばをつかっているけど、それで、自分を否定しているのか、責めているのか、はわからない。

自己犠牲的に自分をつかうのはやめてほしい、のも、単にわたしの、ジャッジだ。

みこは、自己犠牲してる氣なんて、さらさらない。はなしをきいてるかぎり。

やりたいからやる。

自分のことだから、これぐらいは分かる、のは、

氣のすむまでやったら、やりきったら、結果はどうであれ、みこは満足する、

やりたいのに、止められたり、やめとけって言われたり、押さえ込まれるほうが、不快で不満だ。



それに、これはみこのエゴかもしれない、いや、エゴなんだけど、きっと、

ひとによろこんでもらえるのが、ひとにしあわせをかんじてもらえるのが、みこのしあわせ。

そのためなら、できることは、やりたい。

は、うそではない、のだろうから、


・・・そしたら、今のわたしにできることは、

みこのやりたいように、すること。


またひとつ、きになって、きいてみた。

わたしが、みこにできることは、なにかある?


わらっててくればいい、たのしんでいてくれればいい、しあわせでいてくれれば、みこは、それで十分。

あとね、みこの存在をみつけてくれて、みこのおはなしをきいてくれて、ありがとう。それで、みこは満足だよ。


って、にっこり笑って、みこは言う。


・・・それだけ?それだけでいいの?


みこは、ほんとうに、おおくはのぞまない、

・・・いや、そんなことはないか、


わらってて、たのしんで、しあわせでいて。


これって、、、


でも、分かった。

わたしの中には、みこが居てくれる。

エゴでもなんでも、

ひとのよろこぶすがたを、えがおを、

ひとがしあわせをかんじているのを、

みられるのがじぶんのしあわせ、

って、あんなにまっすぐ言えるみこが、

わたしの中に居てくれるなら、

わたしは安心して、じぶんのしあわせ、に

集中すればよい、しても大丈夫、なのだとおもう。


たのもしい。

ずっとずっと、居てくれている、ちっちゃな、だけど、おおきな相棒。



がんばってるつもりも、努力してるつもりも、

ハードに何かをやってるつもりも、なくて、

言われても、え?それがあたりまえでしょ?

ってかんじていたのは、みこが居るから、きっと。


やりたくてやってる、んだもの。彼女は。

たとえ、自分自身でさえも、

それは、自己否定、自責、自己犠牲的じゃないの?そんなのやめてよ、みこもラクで、しあわせでいてよ!

って、みえたり、おもったりするようでも、

よくよく、はなしをきいてみれば、はなす彼女のようすをみれば、かんじてみれば、

そうではない、らしい、ことは分かる。

そうなったら、もう、尊重、するのみ。

今のわたしとは、ちがっている価値観、のようにも感じる。


わたしはとにかく、自分のここちよさや体感、直観、本音がだいじ。

・・・でも、結局のところ、同じところをみているのかもしれない。



そして、

みことわたしは、おたがいに、エゴだなぁ。笑


わたしは、みこに、ラクで、しあわせであってほしい。

みこは、わたしに、わらってて、たのしんで、しあわせでいてほしい。


おたがい、押し付けてるなぁ、じぶんのおもいを。笑笑


でも、相思相愛、ではあるね。

おたがいに、おなじようなことをおもい、あいてのしあわせをねがっている。

愛かどうか、は・・・


どうかな。

すべては愛である、に立つなら、そうと言えるし、

存在そのものを受け容れあっているか、と言うと、

そうであるような、ないような、、、

なので、なんとも言えない。


今回はここまで。それでは👋😊

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ゆみこ
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