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決まっているほうがいいのかどうか

先週は外部向けの研修のコンテンツをスタッフとつくっていたのですが、そのためにヒアリングを数人にしてました。そのときにスタッフから「こまちは本当にいろいろと決まってない。だから迷ったけど、でも迷いながら他の人のあのいいところこのいいところを見様見真似しながら自分らしい在り方を今ようやく見つけてきた。」という話を聞きました。実際にその結果見出した自分らしい接客ことをきいたら、本当だ、本当に「その人らしい」と心底思いました。そういったことに行きつけるようなことを、一緒に大事にできる組織であればいいのかなと最近思い始めました。
やはり一律なものは人の部分を削ぎ落してしまう。見つけやすくなる程度のガイドライン程度で十分かなと!

そこで改めて感じるのですが、こまちには「マニュアル」的なものがとても少ないです。何をYESとするのか何をNOとするのか、みたいなものです。もちろん調理過程とかは分単位で決まっているし、問合せ対応に対する何をするか、どういうローテーションで誰が何を担当するか、等細かく刻んでいることも無数にありますが。そういうのが得意な人がちゃんといて、本当にありたがいです。そういう方々がいて組織がちゃんと組織としてかみ合わさって動けます。私はまるでそういうのがダメです。

さて、そういった大きなマニュアル的なものがないなかで研修面談や日々の判断でなんとかやってきた中で、ここ1-2年決まってないことが多いのが疲れる、辛いという声も聞くようになりました。決まってないということは自分の考える余白が多いこともでありますが、それが面白さと感じる人と辛くなる人と、それを面白く楽しみたいけど限られた時間では難しい場合もあるので、一概によいのか悪いのか、正直よくわかりません。

分からないなかで、二つのエネルギーがぶつかり合ってるのを感じてます。

一つは生み出すエネルギーで、組織として事業を生み出す主体となると、一人一人が「私はこれでいい」「ここはよくない」という範囲を一人一人がもったりそれをもとに対話したり、更にいえばそれを時には柔軟に変えられる力が求められます。その上に、常に改善したり新しいことを作り出していこうというエネルギーを持てるとよい、そういうのを目指そうというエネルギーが生まれます。


もう一つは、滞留するエネルギー。
自分自身も振り返ると、そんな自己承認どころか自信がないときもあるし、そんな意見とかこだわりがないときもあるし、そんなときはできれば「委ねたい」という気持だったときもあります。自分の意見。。。「そんなのない」(それが辛い)と思ったり、決まってないことがとても疲れるということを聞くと、そういうこともあるよなぁ・・・それもありとしてほしいよなぁ、と自分の中でつぶやいていまいます。対話は、いろんなエネルギーを使うし、時間かかるし、とにかくこれでよいのかあれでよいのか迷うし、結構疲れますから、ある程度「元気」であることも必要とされます。
そんな元気がないときに、自分が自由になれないときにこそ居場所が必要で、カフェにいる私たちも「そんな強くなれない」、それでよいとされる風土をもちつづけたい。

そんなエネルギーが私の中でも常にぶつかりあってます。結果、両方ありとしていたいと今は思ってます。いろんな人がいていろんな気持ちを見せてくれることで、私も常にどちらのエネルギーも自分の中で持ち続けていられて、時と場合によって強弱を入れ替えながら前進したり滞留(長くそこにとどまる)こともできます。


写真は、今年リニューアルした秋メニュー。

こまちカフェ:https://comachicafe.com/