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カオス

白梅学園大学の長谷川俊雄教授とコロナ禍と居場所について考える
対談を2月末にしました。
そのときの言葉がその先3月4月と怒涛の2か月でしたが
自分自身の支えにもなりました。

どんな話だったのか。少しかいつまんでこちらに書いておきます。

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コロナ禍何が人々の中で起きているのか


余儀なくされた「生活様式」「生活行動」の変化
ついていけない気持ちにつながり
自明性の喪失(直感「当たり前なこと」が失われること
 意識せずに日常生活や対人生活が遅れる事)が起きていること。

そんな当たり前を失ったときに
 ①意識の変化 
につながる場合もあれば
 ②心身不調・自己喪失・未来消失
につながる場合もある。

意識の変化という中にも
誰にどう評価されているかということにとらわれていたということや
いろんなことが過剰であることへの気づき、豊かさということの履き違いがあるなどいろんな気づきが内省することで生まれる。

その結果、多くを求めない生き方、削ぎ落していく生き方、つながる生き方、その気づきに応じて主体的な生き方を、自分自身の生活革命を起こしていくというようなことが一人一人の中で起きていく。

そんなことが多くの人にとって起きたのではないか。


自分が主体的に誰かとつながったりつながらない(あえてつながらない)ということを、自ら安心してできるようになると自分の周りに
「いい加減なつながり」ができてくる。
強い強制的なつながりではない、そのいい加減さのまわりには余白がある

居場所はそのいい加減なつながりをつくるための格好の場です。

「人が居る」から居場所

居場所は「誰かが居る場所」。

その「居る」という最小条件を『満たした場と時間を経験することは、何かと出会うことを生み出してくれる。その出会いが自分を変えることに結びつき自分の未来を変える可能性さえある』ということをお話しされていました。

居場所は「場が在る」のではなく、「人が居る」から居場所だと。仮に誰も今は場に足を運べなくてもそこに誰か「居る」というだけでもどれほど価値があるかということを言葉を聞きながら改めて実感しました。

出会いは新たな混乱をうむこともあったり不安になったり、かえって世界が閉ざされた感覚になることもあるだろうというお話しもありました。それを解消しようとしない、そのゆらぎは不必要なものではない。変化の中にある荒海に錨(いかり)を降ろすような感覚でいようというメッセージが最後にありました。


カオスの中で生まれる余白のあるつながり

「いい加減なつながり」というのはつながりのグラデーションだなと聞きながら思いました。つながっているようなつながっていないような間柄の人たちがいろんな度合いでいるのはよいこと、たった一人の親友とかこの人がいなくなったら私はもうだめだというような関係だけだと反対に不安定になる。

そんないい加減なつながりはカオスの中でしか生まれない。
あの場には、あんな人もいて、こんな人もいる。
違う人もちょっといて、出会うとちょっとびっくりする。
驚くほど似たような境遇の人やぴたっと息の合う人と出会ったりする。

それが程よく、自分の居心地の良い距離感で選び取れるような「気がする」、そんな場がとてもいい場なんだろうなと最近思います。本当に選び取れるかどうかの自信は自分自身の中にはないことのほうが多いです、だからこの場は「そんな気がする」程度の空気感しかつくれないですが、その空気感をつくることがどれだけ大事か。そこの場にいる人自身のほどよい距離感、なんともいえない塩梅の介入(放置でも過剰な入り込みでもない)がそれをつくるのかなと思います。

ちょっと色々な人がいるカオスと危うさをいかに大事にするかという話も長谷川先生からコメントいただきましたが運営上安定を求めたくなる気持ちとそのカオスならではの場の魅力を両方実感しているのでとても刺さりました。


足を運ぶ回数でもなく、その人自身の社交性にも関係なく、本当に「偶然」としかいいようのないような出会いの場面を数々とカフェで見てきましたが、その偶然は何もしないで生まれるわけではありません。

適度なカオスをつくりつづけられていてこそ、
居場所はそんな偶然を生み続けられるのでしょう。

私はそのカオスに耐えられるだろうか。
耐えられているだろうか。
いつも試されているような気になります。

新しい年度がはじまりました。新たなメンバーも入り、法人全体でチーム作りのための自分人生プレゼンを相互にしたりもっと小さな単位で部署ごとにもそういった時間をもうけている部門もあります。カオスには時には一人では耐えられないので、それを支え合う関係性をつくることが大事なのかもしれませんね。