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自分のことがよく分からなくなった時に読む本

今大人になって思うこと。
それは自分がよく分からないってホントにツライということ。
思春期の時とはまた違う感覚。あれは自分探し要素が強くてどちらかというと白紙にどんな絵を描こうか、という夢いっぱいで心配よりやってみたもの勝ちだろうと当時の私はそんな気持ちだったと思う。
今は沢山の経験のなかで自分を見失っているような、何の身にもなっていないような、全ての経験が夢だったような感覚。今ここにいないもやもや状態という表現が近いかなと思う。
 
 転職活動中の私は最近心理学を少し学んでいる。人の心を理解してみたくて学び始めた。そうして分かったのは、私のもやもやの気持ちを和らげるには自分を知り受け止めてあげることが必要だということ。
自分の気持ちというのは大人になるとこんなに複雑なものなのか、という位色んなもの(エゴ)で覆われ複雑怪奇じみている。
 まずは自分と向き合いたくないという気持ち、この気持ちは単純な様に思えるけどかなりの難関。これを突破しないと始まらない。
まず私は普段、自分を知るのが怖く気持ちをカモフラージュしていると感じている。どういうことかというと自分が出来る小さなことを沢山やろうとする。洗濯、読書、メルカリ、メールのチェックなど。そうすることでやった気になる。断捨離しようと物品をメルカリなどに出品すると気持ちが軽くなった気がする。物がなくなったのをまるで自分の内面がスッキリしたような感覚にしてしまう。ホントの自分の気持ちと向き合うのは今日じゃなかった、気持ちを整理したから良しとしよう。などと、いつしか物品の整理イコール自分の気持ちに置き換えてしまっている。そうやって自己理由をつけて毎日やり過ごしている。

 もうそれをやめよう。そんな意気込みが出始めたからなのか最近再購入した本がある。『チーズはどこへ消えた』である。以前読んだ時は20代のころであまりしっくりこなくて手放してしまっていた。最近本屋で見かけてまた読みたくなった。
読んでみて買って良かったと思った。なぜなら以前の私と今の私が書かれていたからだ。
 
 2匹のネズミと2人の小人が幸せ(チーズ)を追い求める話。単純なネズミと知能ある小人が迷路の中にあるチーズをそれぞれのやり方で探すのだけど、最初に大量のチーズを発見して幸せを手に入れてしまうとそのあとの行動がネズミと小人では違ってくるのが本題。チーズを食いつくした場所から小人はなかなか立ち去ろうとしない。幸せなその地を離れたくないという強い思いはどんどん歪んでいき、いつしかチーズが戻ってくることを願い待つようになる…
私は若い頃理解できなかったが今は、居続ける小人の気持ちが良くわかる。
 変化が怖いのだ、その場に馴染んだ自分を変えるなんて幸せを手放すものだ、幸せで居続ける権利を主張して悪いのかと、頑なに変わろうとしない。さらには人のせいにしたりあなたが変わりなさいよ、とまるで第2の反抗期のようだ。手に追えない。
でもね、とこの本は優しく諭してくれる。
小人の1人があの時はここが一番幸せだと感じたが、今はどうだろうか?違うところに幸せがあると考えてみないか?と動き出す。踏み出すのは怖いが同じところにいても気力体力が失われていくだけだ。なにより同じところにいて変化がないと落ち込むより、動いたほうが幸せ(チーズ)を見つけられる夢をもてるじゃないか、と行動し思ったよりも怖くないぞと感じ始める。
もう1人に教えてあげたい!けれど

なんか、本に入り込みそうな自分

そっか、私変わりたくない自分を認めたくなかったんだ。認めたくなくて心のなかで他人のせいにしたり、自分の正当性を認めてほしくて主張したりしていたんだ、と読んでいて思った。

 変化は自分を失くすことではなくてさらなる自分に繋がるんだ。怖がっている時は怖がっている自分を認めて受け入れてあげよう。何回か読んだことのあるようなフレーズをもう一度自分の心に流してみる。

いつしか臆病になってしまっている自分に
もう一歩踏み出してみない?と客観的な自分が問いかけている気がしている。
始めて読んだ時は小人の気持ちはわからなくてネズミの気持ちの方が分かりやすかった。それだけ一生懸命だったのだろう。
経験値が増え今度は小人の気持ちの変化が深く心に響くようになってきた。今度読み返すときはどういう感じかたをするのだろう。手放さずにしまっておこう。

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