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想う気持ちと、想われているという気持ち。

ゆたかさって何だろう?人それぞれ生き方も考え方も違う。人の思うゆたかさって、いっぱいあるのだろう。

初めてのnoteでも紹介したが、わたしの次男昭太は、重度の障がい者だ。

ルビンシュタインテイビ症候群。聞いたこともない障がいだった。

一歳半からの母子通園、三歳からの障がい児通園施設、小学校から高校まで養護学校(今は支援学校)、そして今通っている事業所と、グループホーム。

今年33歳。もうおじさんだ。

昭太は、ずっと与えて貰ってばかりだと、私は思っていた。常に人の手を借りなければ生きて行けない。

療育手帳A、心臓内部疾患と、全盲で障害者手帳一級、誤嚥性肺炎をよく起こすので、食事も刻みの全介助。

でも、こんな昭太をみんなかわいがってくれ、必要としてくれている。

どの場所でも昭太は周りの人を笑顔にし、癒やしているらしい。

心臓手術をし、4ヶ月の入院の後事業所に行くとみんなに喜んでもらい、ある職員は、昭太を抱き寄せ泣きながら、帰って来てくれてありがとうと言ってくれた。

全盲になった時も、もしかしたら、事業所をやめないといけないかも、と心配でいっぱいだったが、昭太から、慣れたこの場所を奪うわけにはいかない、と、みんなで昭太が動きやすいように体制を整えてくれた。

もちろん彼らは仕事としてやるべき事をやっているのだろうが、遥かに仕事以上の想いをもって、見返りを求めずに昭太達を見守っている。

でも、私は思っている。それは私も気付かない、昭太も気付かないうちに、昭太自らが、なんらかの想う気持ちをみんなに伝えてるのではないだろうか、と。

それこそ昭太の生まれて来た意味ではないか、と。

昭太が想う気持ちと想われている気持ちを呼び起こしている

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私にはこんな笑顔、見せてくれたことないのだけど。

昭太が心臓手術を受ける前あたりから、私は更年期障害に悩まされていた。でも、更年期うつにまでは至ってたかった。


上の二人の子供が巣立ち、わたしは背中に羽をはやした代わりに、心に少し穴が空いていたのだと思う。そこにつけこまれてしまった。

八年くらい前だったたろうか。昭太の心臓手術の後しばらくしてから、夫の事業が傾き始め、夫の両親の介護も負担が増え始め、昭太の世話は手が抜けない。

いくつもの試練が重なってやって来た。私の心も身体も悲鳴を上げ始めていた。

何が辛いのかわからないが身体が言うことを聞かず、夜中に目が覚め不安が襲ってくる。

私はホームドクターに助けを求めた。その先生に診てもらって、もう10年になる。

始めて受診した時、問診票に肩こり、頭痛としかかいてないのに、私の顔を見た途端、

「お母さん、頑張り過ぎてるね。そんな頑張らんでいいのに」と言ったのだ。

私は初対面の先生の前で泣いた。この時から、私の主治医だ、と勝手に決めた。

朝昭太を送り、震える手でやっとのことで電話した。

「先生、助けて」

「死にたい、と思う気持ちがある?」

「死ねれば楽だろうけど、昭太を残しては死ぬわけにはいかない」

「それじゃ、私で診れるから12時半に来て」

先生は、自分の昼休みの時間を削って私の話を根気よく聞いてくれた。

3回ほど駆け込んだ。駆け込み寺じゃないのに。この先生、心療内科もやっている。

今も月一で通ってるが、相変わらず、ちと変わっている。丸眼鏡をちょこんとかけ、

「どんなですか?」

「変わりありません」

「あ、そ」

ね、これ知ってる?とか、自分の興味ある物パソコンに出して、色々説明したり、これおもしろいんだよねえ、とかニヤニヤしたり。ここ病院ですよね。まだ待合室に患者さんいっぱいいるんだけど、と私は気が気でない。

私のストレス解消より、自分のストレス解消してません?

でもそれも、私の様子見ながらの会話だと思う。これも形は違うが、想う気持ちと想われてる気持ちだ。

この前も血圧が上がり、気持ちの落ち込みもあり、相談したら、

コロナのニュースやら、ワイドショー見すぎや。なめときなさい、だそうです。血圧は少し落着き気持ちの落ち込みも解消しました。

私は、心をや病んでることを誰にも言わなかった。弱みを見せたくなかった。

でも、異変に気付いた友達が、ほとんど毎日代わる代わる来てくれた。何も聞かずに、今日これ作ってみたから食べてみて、とか、ちょっと顔見にきただけー、とか。ただただ私の様子だけ見に来てくれてたのだ。

彼女達も大変だったのに。ご主人が寝たきりになった人、ご主人を亡くしたばかりの人、家族に大きな問題を抱えてる人。そんな人達が私を想ってくれていた。


今の時代、SNSで人を陥れたり、病気になった人、それを一生懸命支えてる人、助けてる人、必死で生活を立て直すのに頑張ってる人達に、心無い言葉を投げつけてる人達がいる。

少しでも、想う気持ち、想われているという気持ちがあれば、もっとやさしくゆたかに生きていけるのではないだろうか?

私にとってののゆたかさとは、

想う気持と、想われているという気持をもっている。

ということだ。

2,3日前、小学校から、50年以上の付き合いの友達から電話があった。

子供三人が小学校の時に離婚し、頑張って事業を起こし、営業もバリバリ頑張っている友だ。

月に一度は必ず会っていたが、ここ三ヶ月程会えてない。

私なんかは、今までも自粛と同じ様な生活だったので、あまり感じてないが、仕事バリバリで、多趣味の彼女にとっては、楽しみの温泉にも行けない、美味しい食べ物も食べに行けない、ゴルフも思うように行けない、ストレスの塊になってるようだ。

会って話したい、と。


少し自粛も開放して風の通るとこで会おう。

「私の愚痴、二時間くらい聞いてよね。」

「わかってるよお。何時間でも付き合うよ。」

「あ〜、楽しみ!」

彼女も私に、想う気持ち、想われている気持ちをくれる人だ。

何時間聞かされるかな?

私は、ゆたかな人生を持っている。

#ゆたかさって何だろう

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