短編小説な自己紹介
こんにちは、lovelyさんです!
このアカウントでは、引き寄せの法則を意図的に使い人生を楽しみたい方に向けて、エイブラハム直結の情報を、私自身の実践とともにシェアしています♪
今回は、自分自身の過去を細かく振り返りながら、人生の中で私のどんな思考や観念が何を引き寄せたのか、楽しかった時代、苦しかった時代、それぞれ印象的なエピソードと共に振り返りながら、引き寄せの法則について深掘りしていく、というスタイルで自己紹介たいと思います!(盛りだくさん)
引き寄せの法則、子育て、自己表現、好きなことを見つけたい、パートナーが欲しい…そんな様々な視点から、皆さまに何か気づきや発見があれば嬉しいなと思います。
とっても長いのですが、ぜひお付き合いください♪
自己紹介
◆プロフィール
名前 lovelyさん
住まい 日本のとある島
出身 静岡県
家族 夫と小学生の息子と一匹🐰
現在の仕事 コンサルティング会社経営
その他2つの会社の役員
職歴 (時系列) 美術大学卒業後
➡家具・建築の木部補修職人
➡芸術高校の美術科講師
➡専門学校のアートデザイン講師
普通高校の美術講師
絵画教室アシスタント
➡起業(アートセラピー&ネイチャートリートセンター)
➡オーガニック野菜・雑貨店店長
➡現在に至る
趣味 Art
瞑想
サウナ
SUP(Stand-Up-Paddleboard)
海を散歩
好きな本 グレープフルーツジュース(オノヨーコ)
Art and Letters (Georgia O'Keeffee)
まったりしながら引き寄せる(こうちゃん)
◆自分と繋がりまくっていた幼少期
『今日もお兄ちゃんの教室で楽しく過ごしました。』
幼稚園から返ってくる当時年少さんの私の連絡帳には、頻繁にそう書かれていたらしい。私は気に入らないことがあると黙り込んで微動だにしなくなる、なんともやっかいな3歳児だったそうだ。
先生は、私が呼びかけに応じなくて困り果てると、二歳上の兄を呼びに行き、そのまま私を兄の教室へ連れていってもらっていたらしい。(先生から全信頼を得た、若干5歳の兄の愛がただただ凄すぎる。ありがたし。)イヤなことはテコでも動かずに、大好きなお兄ちゃんの隣で私はやっと機嫌を取り戻す。
このエピソードは、私がだいぶ大きくなってから母が教えてくれた。「その連絡帳を見てお母さんはいつもどうしてたの?」と聞くと母は「いつもそっか~って思って読んでたよ〜」と笑っていた。
実に母らしい。
その状況を、一切どうにかしようとは思わなかった母の対応に、そのときは爆笑したけれど、私自身も人の親になった今、母のこの見守りレベルはただものじゃないと身に染みて感じる。深い愛と信頼…なのか何なのか?もはや尊敬しかない。ありがたし。
とにかく、幼少期の私は、言うなれば内気という名の着ぐるみを着たジャイアン。シャイで自分の気持ちを人に伝えることがすごく苦手、だからと言って納得できないことをやるのもイヤ、頑として拒否!
世間的にはそれをわがままと言うのだろうけれど、エイブラハムの視点でいくと結構自分と繋がった、そんな幼稚園児だったようである。
周り…特に家族にとっては迷惑なこともあったかもしれないけれど。寛容で理解のある家族に、私はどこまでも甘えて、どこまでも支えられていた。
◆子どもは未熟な存在ではない、子どもはとんでもなく賢い
私が2~3歳のころ、母は私にアヒルのおまるを差し出した。おむつ外しの時期だったのだろう。私はそのアヒルのおまるが死ぬほど嫌だった。
というか屈辱だった。
「こんな子どもだまし使えるか!バカにしてんのか!」
本気でそう思っていた。
私は普通のトイレで用を足したかった。何がアヒルだ。分かりやすく取り入ってくるな!それに、モコモコのおむつじゃなく、お兄ちゃんみたいな薄くてかっこいいパンツが履きたいんだ!
だがもちろん、2歳の私にはそれを伝える術がない。いつもおまるから逃げまどい、おむつを脱ぎ捨てて、何度も失敗しながらも“普通”のトイレに駆け込んでいた。
アヒルのおまるが嫌なんじゃない、
アヒルのおまるに象徴されるその子ども扱いが
不満で屈辱だった。
私は赤ちゃんでも子どもでもない。私は私だ。
言葉にすると、なんとも尖った2歳児だけど、イヤイヤ期などと呼ばれる子どもたちは、きっとみんなこんな感覚なんだと思うんだよね。
息子が産まれてすぐのころ、母と初めてこの話をしたことがあった。母は、そんな風に思ってたの~?ごめんね~!と大爆笑していた。「アヒルのおまる、お兄ちゃんは喜んで座ったから、てっきりアンタも好きだと思って~」
アレを好きだった人がいるんだ!!(兄です)
私は衝撃だった。つくづく人間の好み(望み)って人それぞれ。母に全く悪気がないのが分かっていたから、今となっては別にいいんだけどね。
このエピソードから思うのは、どんなに幼くても、子どもだって皆強い意思と自分の望みを持っている、ということ。それを叶えるために生まれてきてるんだから、当然といえば当然なんだけど。
2歳で子ども扱いされることを嫌がるという、大人には思いもしない角度から親に反発している子だっているのだ。子どもは、大人が思っている以上に明確に自分の意思を持っているし、上手く言えないだけでそれを主張する自分なりの理由もある。(理由などない、気分や直感!って、そっちの場合もあるけれど)
いずれにせよ、「したい」ことも「したくない」ことも、本人がちゃんと自分の感覚を拾っているわけで、私たち大人はそういう子どもたちの直感をああだこうだと思考で切り捨てず尊重してあげる必要があるんじゃないかなと思うのだ。
なぜなら、直感って、無視しづけるとそのうち自分で分からなくなる。だから、他人の声ばかりを聞いて、自分の直感を無視する訓練は、できるならばしない方がいいと私は思う。自分の人生は、自分の直感を使った方が、効率よく望んだ通りに生きていけるからね。
私はそんな自分自身の経験や記憶や大切にしている考え方があったので、自分の子育ての中では息子本人の望みをなるべく尊重したいと常々思って関わってきた。(つもり)
エイブラハムを知れば知るほど、そんな自分の子育てを「それでいい」と思えるのがまたありがたい。
そして、幼少期の自分は今振り返るとお手本にしたくなるほど自分と繋がっていることも、改めてスゴイな〜と思う。子どもは幼い子ほど自分と繋がる時間が長いらしいが、自分自身を振り返ると確かになぁと思う。
ただそれもすべて、そんな私の自由を許してくれた、家族や先生、環境のおかげ。そう考えると、深い感謝が湧いて胸がいっぱいになるね。
◆絵と空想が大好きな小学生
やらなきゃいけないことが圧倒的に増え、人間関係もより複雑になる小学生。
・好きな教科は図工だけ
・勉強は苦手、記憶するのはもっと苦手
・少食だったから量が多すぎる給食も苦手
・小6のときついにクラスで一番身長が小さくなった
・家族とのお出かけはキャンプかハイキング
学校の授業は、基本いつもよく分からなかった。でもまぁ、ぼんやりしていれば終わるし、空想が好きな私にとってはたいして苦ではなかった。むしろ充実。(逆にヤバい。)
毎日席について静かに授業を聞いている、が、挙手して発表などは全くしないしテストの点数も振るわない。というわけで、成績は5段階評価でオール3。
目立った可もなければ、目立った不可もない。一応真面目だから3をあげとこう、まぁそんな生徒だったと思う。
実際は、授業は一切聞いていない、頭の中は空想でいっぱい、でも先生にはそんなことは分からないからね。私が誰かに喋らない限り、私の頭の中は誰にも分からない。かといって、授業中の空想がいかに私のバイブスをあげる大事な時間であるかなんて、本人ですらそこまでの認識もないので人に語りようがなかった。何よりそれを、胸を張って正当化していいことではないことくらいは分かっていたしね。
そんなわけで、特に子どもを外側から評価することはとても難しいと私は思っている。理解となるともっと難しい。だから、せめて親である自分は、理解も評価も誘導もほどほどに、我が子がただそうあることを許してあげれば、まぁそれでいいんじゃないかと思っている。
我が子に対する存在への感謝(生まれてきてくれてありがとう)、大きな枠組みでの許可(生きていてくれるだけで嬉しい)、それは内なる自分であるソースエネルギーと繋がった(視点が一致した)人にしかしてあげられない、パワフルで偉大なギフトなのだ。
目に見える成果に対して評価することは、割と誰にだってできる。他人にだってできるのだ。だからこそ。
さて話を戻そう。私が最も幸運だったのは友達に恵まれたこと。優しくて賢くて愉快な友達に恵まれ続けた学生時代。だから毎日楽しかった。
「私は人に恵まれている」この観念によって、私は人生で良好な人間関係を引き寄せ続けた。そして、引き寄せによって現れた素敵な友達との楽しい現実が、また私のその観念を強めたという、これはすごく分かりやすいパターンだと思う。
おまけに健康にも恵まれていて、小さいクセに異常に丈夫な身体のおかげで、小学校は1日も休まず皆勤賞だった。(皆勤賞…今では死語??)
「私は身体が丈夫だ」、これも私が幼い頃から自分の恵まれているところだなぁ〜と思い続けてきたことであり、強い観念。自分は風邪を引かない、なぜかそう信じきっていた。だからだと思うけれど、息子に対してもそう思い込んでいて、息子が現在の7歳までに風邪をひいて発熱までいったことは2、3回ほど。男の子はすぐに熱を出すよ〜なんて聞いていたけど、全然そんなことなかった。風邪がダメだとか、引かないことが偉いとか言ってるのでない。これは、いかに自分の観念が現実を作っているか、という話。この世はすべてエネルギー、「何を信じるか」によって自分の人生は創られるのだ。
私って◯◯なんだよね〜、うちの子って◯◯なんだよね〜、もしあなたにそんな口癖があれば気にしてみてほしい。そしてそれが、自分が望んでいることでないのなら今日からもう言うのはやめて、代わりに叶ったら嬉しいことに定義し直してみるのもいいかもね。
一輪車にローラーブレード、手芸も漫画も大好き!
活発で友達と遊ぶことが大好きだったけど、家では暇さえあれば絵を描いていた幼少期。夕食の後、家族がテレビを見ている横で一人絵を描くのが私の日課だった。
休みのたびに家族で出かけたキャンプへも、必ずスケッチブックを持っていった。夕飯の後、ランタンと月明かりの下でスケッチブックを広げる。シンとした夜の森の美味しい空気の中で、隣に家族の体温を感じながら絵を描く時間は至福だった。
イラストを雑誌に投稿して賞を取ったり(賞品でドラえもんのTシャツをもらったんだけど着るのが恥ずかしすぎて、こっそり着て誰にも見られないように自転車で近所をひとり大爆走した思い出。笑)、企業の絵画展に応募して入賞して展示されたり、学校以外でも絵を描いては気が向いたら応募をしていた。
ただただ、絵が好きだった。
白い紙の中にだけは、無限の自由さがあった。
家でも、図工の授業でも、雑誌の応募でも、あの頃の私は、何のための絵であろうと、何の気負いもなくただ好きなものだけを好きなように描くことができた。
まさに自分軸。あの幸福感は、ホント無敵だったな~と思う。あの感覚が、ずっと忘れられない。
サッカーの元日本大代表の中田英寿選手は現役バリバリの当時、作家の村上龍さんとの対談本の中で「3歳のときが一番サッカーがうまかったと思う。いまだにあの頃を越えられない。」と語っていたのだけど、それを読んだときすごく共感した。
“いまだにあの頃を越えられない”
私の思うに、それはきっと技術的な話ではない。あの無敵の感覚、純度100%の楽しいという感覚、本当の自分自身と繋がった感覚、その感覚の中にいるときだけに降り注ぐクリエイティブなアイディアや俯瞰した視点、風になったような身体感覚や、毎日できることが増えていく拡大の感覚、それらを全部ひっくるめて得られる言い難い“喜び”。
その本を読んだ大学生の私は、世界をフィールドにこれだけ活躍し続けているプロでさえ、その感覚の中にいるんだ…と思った。勝手な解釈かもしれないが、私と中田選手では何もかも違うけど、でも欲しい感覚は一緒なんだ、と思った。
あれから20年経った今でも、私が一番欲しいのはあの感覚。
私も一緒なんだ。
◆絵を忘れた中学生時代
中学校では、思い返しても訳が分からないほど部活に打ち込んだ。寝ても覚めても降って晴れても、私は学校の校庭でソフトボールの練習をしていた。
先輩は怖かったし、毎日クタクタで、顔は日焼けで真っ黒、土日も夏休みもずっと練習だったけど、それでも3年間続けられたのはチームメイトが最高だったから。みんなのおかげで毎日ただただ楽しかった。今でもみんなには心から感謝している。本当にありがとう。
授業中の過ごし方は、中学生になっても相変わらず。「あ~先生の字って綺麗だな~」から始まって、「どうやったらあんなに綺麗な字が書けるのかな~チョークの持ち方かな~力の加減かな~」という具合に、一瞬でアッチの世界にイってしまい、アっという間に授業についていけなくなるのが常だった。
そんな感じで、中学生になっても授業中に先生の話を集中して聞き続けるということがすごく苦手だった。すぐに意識も思考もどっかへ飛んでいってしまう。
そんな私にも、唯一「よくできた出来事」として記憶に残っていることがある。それは、作文でとんでもない賞をとったこと。
中学1年生か2年生のとき、国語の授業で先生が文章の書き方の基本を教えてくれた。ふせんにキーワードを書いて整理しながら、起承転結を組み立てて文章を作るそのやり方が、すごく楽しくて私にどハマりした。
作文は3つのテーマから選べたのだが、私は「生命保険」にした。最も人気がないテーマだったけど、当時、母が生命保険の営業の仕事をしていて、“命にお金をかける”という大雑把な認識のまま、生命保険のことも母の仕事も嫌っていた私にとっては、ものすごく身近なテーマだった。
母の仕事を手放しに応援できない、無知な自分や複雑な気持ちに、小学生の頃に死んでしまった愛犬への想いを絡めて書きながら、作文の中で私は「ペット保険」を提案した。
今から30年も前の話である。前衛的な提案でしょ??今ではすっかりメジャーになったペット保険の発案者は、間違いなくこの私だと思っている。笑
というわけで私は、全校生徒が集まった朝礼で、どデカイ賞品と共に表彰をされた。そのとき、いつもすごく怖くて厳しい顔の国語の先生が「あなたが誇らしい」という顔で私を見て小さく頷いてくれた。
何か言葉をかけられたわけではない。でも、あんなにも「誇らしい」という気持ちを全面に表してもらったことも、そんな目で誰かに見つめられたこともなかった私は、あまりに嬉しくて心が震えて涙が出そうになった。
人と比べて自分に自信を無くしてばっかりの思春期真っ只中の私にとって、それはとても大きな出来事だった。30年経った今でも思い出すほどに。
エイブラハムを知って思うのは、あの「誇らしい」という眼差しが、私たちはソースエネルギーから24時間注がれ続けているということ。それも、作文なんて書かなくても、ただ生きているだけで、悩んでいても怒っていても、私たちがどんな状態でもずーっと無条件に「愛」「誇り」「感謝」そんなエネルギーを注いでもらっているんだから…なんて幸せなんだろうと思うよ。
それまで苦手だと思い込んでいた文章を書くことが、あの授業で初めて「楽しい!」と思えた。そして、楽しい!!!という私の波動が他者に伝わり「入賞」という形でフィードバックを得た。
“楽しい”はとにかくパワフルで偉大なのだ!
調子に乗った私は、しばらく将来の夢を「作家」と言っていた。(そういうところがなんかもう…笑)そんなことも長いこと忘れていたけれど、ここ一年で友達から文章を褒めてもらえることが増えたことで、「作家になりたいとか書いてたよな〜」とそんな自分をまた思い出したのだ。思い出せてとても嬉しい。ありがとう。
そんなこんなで、授業中は充実の空想、休み時間は友達とお腹を抱えて爆笑。伸び伸び過ごした中学校生活。
そんなお気楽な私にも、ついに受験が迫ってきた。
◆美術の道を開いてくれたのは意外な「あの子」
ソフトボール部を引退した私は、高校進学を目指して塾にも通い始め、すっかり受験生モードになっていた。勉強は意味不明すぎたし苦痛だったけど、さすがにこればっかりは避けられない、仕方がないと思っていた。
やりたいことも特にない、3年間頑張ったソフトボールはチームメイトが変わるなら私にとってはもう続ける意味はない。とりあえずどっかの高校の普通科に入れたら…
なんとも投げやりであるが、でもそれ以外の道が分からなかった。
そんなある日、まぁ仲は良いけど、進路など込み入った話をするほどでもない、そんな間柄のクラスメイトが
「lovelyちゃん!この高校知ってる?毎日絵ばっかり描ける学科があるらしいよ!lovelyちゃんにピッタリじゃん!」と、興奮気味にとある高校のパンフレットを一冊私の前に差し出してくれた。
「推薦入試、lovelyちゃんも受けてみれば??」
イナズマビビーーーーーン!!!! これや。これしかない。
その時点で、推薦入試の申し込み期限が1週間後くらいに迫っていた。パンフレットの美術科のページには、毎日4時間くらい絵を描くと書いてあった。最高じゃないか!私は一瞬でときめいた。
私はその足で職員室の担任の先生の元へ向かった。
その夜、両親に頭を下げて応援して欲しいとお願いをした。私立は経済的に無理、といっていた両親の説得に成功し、翌日担任の先生に話をしてもろもろ提出して無事完了。
親も先生も、あまりに急な進路変更にビックリしながらも、私の選択をすごく尊重してくれたのは、私がこういうことを日頃はほとんど主張するタイプではなかったからかもしれない。「高校で絵を学びたい」ただ真っ直ぐそう伝えただけで「そんなに言うなら」と受け止めてくれたのは心底ありがたかった。
今思えば、まさに見えない力が働いた瞬間。
そして私がそれを受け取った瞬間。
いつもボケっとしている私が、光の速さで行動ができたのは、私自身がワクワクした気持ちを抑えられなかったから。
引き寄せの法則でいうと、インスピレーションとは、こうした最も抵抗の少ない方法で私たちにやって来るらしい。行動は軽く動ける感覚の中でやれるものが来るので、私たちはそれをやるだけなんだよね。
さて、ところでなぜあの子は急に私に進路のアドバイスをしてくれたのだろう?実は今だによく分からない。確かにいつも温かな空気の「あの子」のことが、私もすごく好きだったけど…きっと何かの拍子にピンと来てくれたのだろうね。小学生の頃からの付き合いだとは言え、私が絵が大好きなことを知っていてくれたことも、今思えばとても嬉しく感じる。
推薦入試があることも、その締め切りがもうすぐなことも、クラスメイトが二人その推薦入試を受けることも、制服が可愛いことも、全部彼女が教えてくれた。なんでそんなに詳しいの?私のために調べてくれたの?よく分からないけど、不思議でありがたい出来事だった。
きっと、宇宙が私に用意したシナリオだったのだろうね。何の違和感もなく、私は彼女のアドバイスを受け入れることができた。
試験は、学科(国語と英語)とデッサンと面接だった。
なぜか直感で「面接がすべてだ」と思った私は、明るく元気に「美大を目指しています!」と思ってもいないことを宣言して、見事試験に合格した。(同じ試験を受けたクラスメイト二人は試験をパスしなかったので、一応誰でも受かるというわけでもないらしかった)
人生で初めての面接は、予行練習ゼロにも関わらず完璧な出来だったと思う。そうやって、私たちはもっと素直にインスピレーションに頼れば、思った通りに生きていけるのだろうね。あの頃はまだ、私にもそんな直感がうまく働いていたように思う。
ほとんどの時間をソフトボールに充てていたおかげで、仲間も思い出も体力も、得たものもたくさんあったけれど、家で絵を描くことはなくなっていた中学3年間。
そんな私に、これからはまた毎日絵を描く日々がやって来るんだ…
嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
◆生まれて初めて絵が苦しくなった高校時代
ウキウキで入学した高校は、最高に楽しかった。
自分の世界を持っているぶん、周りに干渉はしないけれど、それぞれが謎でディープなこだわりを持っている…そんなハートチャクラ閉じ気味の(笑)、自分に似た気の合うクラスメイトのおかげで、私は毎日ゲラゲラ笑って過ごすことができた。
絵はどうかというと、とても上達した。けれど一方で、アカデミックな美術教育に私は苦しんでいた。
モチーフ(描く対象)を決められ、制限時間を設けられ、新しい紙への描き直しは許されず、完成した作品はクラス全員分並べられて、先生たちから「講評」という名の評価を受ける。
自分の絵について、他人から指摘を受けることが初めてだった私は、講評会のたびに毎回泣きそうな気持ちになった。絵と自分を分離できない。絵の評価がそのまま自分の価値評価のように感じて苦しかった。それくらい、私にとって自分の絵は、自分の分身のような存在だった。
美術の専門教育の中では普通とされる全てのことが、私にとっては何もかも苦痛だった。でも、そんなへぬるいことを言っていては前に進めない…と泣きたい気持ちをグッと我慢していた。
大好きなはずの絵が、だんだん苦しくなった。だけど、苦しいことを受け入れたくなくてもがいていた。
私が世界で唯一自由を感じていた絵の中に、そんな風に不自由と苦しみが支配し始めたのは、私が自分の感覚よりも外側の評価に比重を置いたからだと思う。
私はそれまでと変わらず、自分の自由と満足のために絵を描けばよかった。でも、それができなかった。自分よりも圧倒的に知識と技術と経験を持つ「先生」たちの方が、絵の世界では正しいに違いないと思い込んでしまった。
そして、もしも表現に「ただ楽しいだけ」のその先があるのなら、その過程が苦しくても頑張りたい、辛くても行ってみたい、そう思うようになっていった。
しかし、そんなふうに頑張れば頑張るほど、ますます私は私の違和感を、自分でうまく拾えなくなっていった。描きたい絵が分からない…私は描くべき絵を探し始めていた。
そんなものどこにもないのに。
◆洋裁とファッションが心の支え
絵を描くことが辛いとき、私の気を晴らしてくれたのは「洋裁」と「ファッション」だった。
休みになると布屋に出掛け、最初は型紙もなく気ままに簡単なエコバッグを縫った。そのうち、洋服を作ってみたくなって、型紙を買ってきて洋服を作り始めた。
ピッタリサイズのデニムのミニスカート、蛍光ピンクのフリース生地でフード付きのジップアップベスト、肩紐に凝ったレースを縫い付けたキャミソールや、小さなボタンがたくさんついたノーカラーシャツなど、手の込んだものもいろいろ作った。
高校時代は、アルバイトで貯めたお金をすべて洋服につぎ込むほど、人生で一番ファッションにハマっていた時期だったと思う。雑誌に載っているスニーカーが欲しくて、電話をして取り寄せたこともあった。
mina perhonenの前身ブランドminaの服を初めて買ったのもこの頃。私は皆川さんの服に一瞬でときめいた。そんなちょっとオシャレなショップに出入りするうちに、店員のお姉さんと気づけば友達になっていた。彼女の私服と私の制服を交換してプリクラを撮ったり、夏に一緒にBBQをしたり、彼女の一人暮らしの家で鍋パーティーをしたり、夜遅くまで恋バナをしたり。
初めてクラブで遊んだのもこの頃だった。行ってみると同じ美術科の先輩たちがチラホラ遊んでいて、ARTと音楽って、なんかやっぱり繋がっているのかなぁ、どっちか一方だけじゃ成り立たないものなのかなぁ…と、朧げにそんなことを考えていた。
◆普通コンプレックス?
そうして自分なりに上手く気分転換をしつつも、絵にもしっかり打ち込んだ。放課後も夏休みも、時間がある限り講習に出てたくさん絵を描いた。
それでも、絵に対する手応えや満足感にあまり変化がなかったので、インプットを増やしてみよう!と思い、美術教員室にある画集や、画家についての本もいろいろ読んでみた。すると、ゴッホもピカソもゴーギャンも、ビックリするほどみんながクレイジーなことが分かった。彼らは、人間も人生も丸ごとすべて、何もかもがぶっ飛んでいた。
自分で自分の耳をちょん切るくらいのメンタルや、ドラマチックな苦しみや奔放さがないと人に刺さる絵は描けないんだ…と私は本気でそう思った。
普通すぎる、、、私は普通すぎる!!!
普通のサラリーマンの家庭に生まれて、一男一女の末娘。特別寒くも暑くもない静岡県の普通の一軒家に住んで、フツーすぎる毎日を暮らしてきた私。
こんな普通の私に何が表現できるんだ??
私は普通コンプレックスを持つほど、自分を拗らせ始めていた。笑い話ではなく、私は大真面目に自分の普通さ平凡さに悩んでいた。
ゴッホと比べて私は絵描きになるには普通するぎるじゃないか!!!(アート界でもトップクラスのクレイジーmanかつ歴史的にも偉大すぎるこの人物と比べるあたりが…ね。笑)
表現者になるには普通すぎる、この普通コンプレックスは結構長い間私の中に住み続け、私を拗らせ続けた。
2歳の頃のように「私は私」それでいいのに、私はいつの間にか普通じゃないスゴい「誰かのように」なろうとしていた。うまくいかない原因を、生まれのせいや環境のせいにでもしないと苦しすぎたのかもしれない…たとえ無理矢理だとしても、こじつけだとしても。でも、人と比べて自分には無いと決めつける、周りや環境のせいにする、そんな自己否定や被害者意識からの思考こそが自分を苦しめている原因だと気づくのは、、、もっと先の話。
とは言え、学校でも楽しさを感じながら絵が描ける瞬間もたくさんあった。それが私の希望となっていた。もっといけるはず、もっと自由を感じられるはず、と。
そうした「楽しい」気持ちが時々見せてくれる微かな希望が、私を大学受験へと向かわせたのだった。
◆美大進学を目指して…
どうせ行くなら一番すごい人たちが集まる東京が良かった。そこで自分が何を感じるのか知りたかった。
絵も描いた、勉強もした、
できることは全部やった。
でも、自分の実力を無視して、行きたい大学だけを選りすぐって挑んだ大学受験は見事にすべて落ちた。
浪人決定。
ショックというより、やっぱりねと思った。こんなに全然楽しく描けないのに受かるわけないよな、と。でも、どうしたらまたあの頃のように無限の自由さを感じながら楽しく絵が描けるのか、結局その突破口が全然見つけられなかったことが、苦しかったし、何より怖かった。
この苦しみの先にきっと何かがある、どこかへ辿り着ける、もう根拠なくそう信じるしかなかった。
18歳の私は地元静岡を離れ、東京で一人暮らしをしながら美大を目指すための予備校に通い始めた。(親には感謝でいっぱい)
東京の中央線沿い、東小金井という駅から徒歩10分のところにある六畳一間のアパートで、私の孤独で不摂生な暮らしは始まった。
一階には親切なブラジル人の大家さんが住んでいて、母からのお惣菜の詰め合わせ便を、たびたび私の代わりに受け取ってくれて助かった。
サッカーワールドカップ日韓開催の期間中は、ブラジル戦のたびに大家さんの家からギャーギャー盛り上がる声が聞こえて面白かったっけ。
◆美術予備校で過ごす日々
予備校では、9時から17時まで絵を描いた。
描いて描いて描いて描いて、毎日禿げるほど絵を描いた。クラスには、私と同じ1浪生が半分くらい、あと半分は2浪以上の多浪生だった。
毎日毎日毎日毎日キャンバスと向き合い、自分と向き合う日々。化粧とも無縁、おしゃれとも無縁、毎日全身ユニクロの服の上からツナギを着て、兄のおさがりのボロボロのコンバースのハイカットを履いて、手についた油絵の具は洗っても洗ってもとれなくて、絵具まみれの手でコンビニの菓子パンやおにぎりをかじる日々。
大好きなおしゃれはお預け。
汚ったない格好で出かけるのは、自転車を飛ばして行く吉祥寺のユザワヤか、ちょっと張り切って電車に乗って向かう新宿の世界堂。どちらも画材屋だ。電車の中でもクロッキー帳を出して人物をスケッチした。時間を惜しんで絵を描いて、食費を削って画材を買う日々。
見知らぬ土地と真新しい人間関係、すべてが一新された私は、息抜きの術を模索していた。毎日「絵」しかない。悩みを相談できる友達もまだ全然いないし、地元の友達はみんな花の大学生、応援してくれる親にも頼れない…悩みも不安も寂しさも、すべてを一人で抱えて常にストレスは爆発寸前だった。
唯一の癒しは散歩。時々予備校を「風邪」だと言ってサボっては、近所の自然公園をのんびり散歩した。(予備校に連絡をしないと先生がすごく心配をしてしまう。ストレスフルな未成年の一人暮らしの私を、今思えば周りの大人は注意して支えてくれていたのだね。ありがたい。)
精神的にはいつも限界だったけど、でも今思えばあそこまで徹底的に自分のことしか考えず、好きなことしかしない毎日は、ある種幸せだったなぁとも思う。
浪人生活は2年目に入り、東京での暮らしにもどうにか慣れ、絵がやっと少し楽しくなってきた頃、あの無敵の自由さで油絵が描けたことがあった。
放課後、モチーフ(描く対象)を探しに東小金井駅からすぐの魚屋さんにふらりと立ち寄ると、殻付きの牡蠣と目が合った。コレ描きたい…‼︎ その時点ですでに頭に絵の構想がハッキリと浮かんでいた。
翌朝、予備校のアトリエでエスキース(簡単な下書き)をサラサラと描くと、その段階でもう完璧だ、と思った。
そのまま一切の迷いなく、二日間で絵を描き上げた。楽しくて楽しくて、次から次へと次の一手のアイディアが降りてきた。あの色を置いて、この色を置いて、ここをこうやって描き込んで密度を上げる…降りてきたアイディアを、何の思考も挟まずにただそのままキャンバスに現した。あっという間、夢中で描きあげた。
子どもの頃以来の、この感覚。…最高だ、と思った。
完成した絵を見て先生たちは全員が「良いんじゃない」と言った。それは予備校ではあまり見ない、良い意味で珍しい光景だったけど、私にとってはそんなことすらどうでもよかった。
良いとか悪いとか、上手いとか下手とかじゃない、もはや作品がどうのこうのではない。そんなことはどうでもいい。私がずっと味わいたかった“あの感覚”の中で絵が描けたことに、私は心底満足していたし、一人沸々と興奮していた。
大学受験も大学進学も、どうでもよくなるくらい最高の気分だった。そう、絵は楽しいんだ!!その楽しさって内側から湧きあがるこの感覚なんだ!!!私はそれを自分に対して証明できたことが何よりも嬉しかった。諦めなくて良かったと心底思った。
それは、今年は絶対受かるなと思った瞬間であり、同時に張りつめていた糸がプツンと音を立てて切れた瞬間でもあった。
大学かぁ…もう受かればどこでもいいかもなぁ
内心そんなことを感じ始めていた。
◆現代アートは面白い!
無事に望んだ大学に入学することができ、大学生になった私はほとんど絵を描かなくなった。
結局あれ以来、あれほどの感覚で絵を描くことは叶わなかったのだ。
もう絵にこだわらなくていいや、そう思った私の目の前に「現代アート」という世界が現れた。私はのめりこんでいった。
大学3年になると、クラスはさらに細かくコース分けをされ、自分の学びたい方向性をより細かく選ぶことができた。そんな中、たまたま私たちの年から表現方法にとらわれないコンセプチュアルな現代アートを学ぶコースができ、私は迷わず一期生になることを選んだ。
様々な現役アーティストの講師を招いて進んでいく講義と実技は、最高に面白かった。私はますますコンセプチュアルな作品の世界に没頭していき、世界に対して問題提起をするようなカッコいい作品を、画集でも美術館でもたくさん見てはシビれていた。
私が好きなアーティストの多くが、自分の内側の非常にパーソナルな“問題”を、美しい作品に昇華して世界に開示していた。自分の中にある、時には人生を狂わすほどの、時にはささやかなそれらの“問題”は、根っこではこの社会や世界と繋がり、社会や世界の問題となっている。
個人的な問題であればあるほど、それはいつだって世界の問題で、個人的な悩みであればあるほど、それはいつだって世界中の人々の悩みだというその視点を、私はたくさんの素晴らしいアーティストの作品から学んだ。そして、それは大学在学中ずっと私の制作の中心にありつづけ、私の研究テーマとなった。
海を越えて時を超えて私に出会ってくれたたくさんの素晴らしい作品にインスパイアされて、私自身も映像表現、身体表現、立体作品、インスタレーション、銅版画にシルクスクリーン、いろんな手法を試しながら自分の、ときにはチームでの表現を探っていた。
でも、
私の手ごたえとして、コレだ!というような作品は、卒業制作を含めて結局一つも作れなかった。作っても作っても満足できない。なんか違う、全部違う、全然違う、これじゃない。そんなことを繰り返しているうちに、何が創りたいのかも分からなくなってしまった。
アートの世界は底なし沼だと思った。
普通コンプレックスがチラチラと頭をよぎった。
私には才能はないのでは?
私は平凡すぎるのでは?
今思えば、なんか違う、全部違う、全然違う、これはすべて当時の自分自身に対する自己評価だったのだと思う。
私は作品に対してだけではなく、自分自身に対しても全然良いと思えなくなっていた。全然好きじゃなくなっていた。外ばかりを見て、人とばかり比べて、自分に“ある”ものを真っ直ぐ見れなくなっていた。
何をしていても「それのどこが面白いんだ?」「そんなの誰にでも思いつくよ」「かっこ悪い」「それのどこがアートなの?」頭の中で否定の言葉がどんどん膨れあがっていく。日々の中で自分と繋がれない時間ばかりが増していった。
作品制作は、苦しいばかりになった。
◆大学卒業後
私は疲れていた。もうイヤだ。アートも絵ももう嫌だ。もう頑張りたくなかった。本当に底なし沼にいる気分。どうしたらここから出られるのかも分からない。情熱も湧いてこない。作りたいものも描きたいものも、なんにも分からなかった。なんなら白いキャンバスを見るのが怖いくらいだった。
何も浮かばな過ぎて、白い画面に向き合うのが怖かった。
大学生の頃は、私がたとえそんな状態でも、大学に行けば沸々と燃えたぎり制作に熱中する仲間たちがいた。時にはアトリエで、時には駅前の立ち飲み屋で、彼らとたわいもない話や作品の話をしているうちに、私はまた自分の制作の糸口を見つけることができた。
でも、そんな環境は卒業と同時になくなった。
ウダウダと考えていても、息を吸って吐いているだけで、私たち人間はお金がかかる。家賃も光熱費も毎月キチンと支払いが来る。ひとまず働かなきゃ…
卒業後しばらくして就いたのは、家具や建築物の木製部分の補修をする補修職人の仕事だった。職場には、同僚に美大出身や絵描きやミュージシャン、そんな同年代の職人がたくさんいて、仕事だけど大学のサークルみたいですごく楽しかった。(とにかく人生でずっと人に恵まれてきた私。ありがたし!)
どんなに早起きの仕事の日でも、朝起きて一度も「仕事に行きたくないな」と思ったことがなかった。いい感じに手を動かし、いい感じにクリエイティブな領域もあり、先輩にも後輩にも恵まれて、その居心地の良さがゆえに、もしコレを一生の仕事にするつもりがないのなら“ずっとここにいちゃいけないな”そう思い始めたころ、旧友から一本の電話があった。
「母校で美術を教えてみない?」
私は、東京から地元静岡に引っ越しをして、美術科の講師として母校で働くことにした。
先生業は楽しかった。生徒はみんな素直で可愛くて、伸び代だらけだった。そして当時の私と同じように「絵が大好きなのに苦しい」と感じている生徒がたくさんいた。まるで自分を見ているようだった。
彼らに必要なのは自信だった。
誰かと比べる必要はない、
誰かの声を聞く必要もない、
根拠なく自分の声と感覚を信じて欲しい。
誰に何を言われても、自分のやりたいことをやるしかないし「それでいい」、そうやって少しずつ生徒の内面に関わることが心底楽しかったのは、それが自分への癒しだったからかもしれない。
とはいえ、生徒たちには偉そうに言いながら、自分は超絶スランプでまったく作品が作れない、そんな状況にものすごく罪悪感とストレスを感じるようになっていた。
もう一度楽しく描けるようになりたい…生徒と関わるたびに、そんな私自身の心の叫びも大きくなっていった。そんなある日、ふと目に止まったアートセラピー。休日を使って東京へ通い、アートセラピーを学んでみようと思った。
これまでとは全く違う切り口でアートに触れることで、描くというそのプロセスを、もう一度純粋に楽しめるようになれるかもしれないと思った。
◆ネイチャートリート施設を作る
アートセラピーの学びは有意義だった。毎回深い部分で癒されていくのも感じられた。
アートセラピーの世界の中では、作品をどうこうジャッジすることはない。それをそれとして受け取る、それをそれとして感じる、味わって伝える、そんな風に作品に関わる在り方は、私にとってはとても新しくて気持ちが安らいだ。
ある日、アートセラピーを学びに向かった東京の、とあるネットカフェのトイレで、一人の女性に出会った。
彼女は、復興支援活動をするNPO法人の理事で、約1年前に起こった3.11の震災について私にいろんな話を聞かせてくれた。東京に行くたびに、私は彼女と待ち合わせをしてお茶をしたり、一緒に美術館へ行った。そして、私は彼女が企画する「理想の人生をDesignする山登り」という面白い合宿イベントに参加することになった。
長野県北アルプスの涸沢カールの山登りは過酷だった。皆が通常一泊する登山ルートを、私たち(参加者20名くらい)は日帰りで登って下山した。けれど、そんな過酷さなど忘れてしまうくらい、とんでもなく美しい景色と美味しい空気がそこにはあった。久しぶりに蘇る自然に癒される感覚が、骨の髄まで染み込んで行った。
その山登りのご縁で、私はとある会社の経営者と、NPO法人の理事の彼女と、自然を使ったトリート施設を作り震災の復興支援を行うプロジェクトに参画することになった。アートセラピーと大好きな自然や海外、打ち合わせのたびに胸がワクワクした。
ただ、当時20代後半の私は、人生に焦りまくっていたのもまた事実だった。
キャリアもない、お金もない、パートナーもいない、コレと言って誇れる技術や才能も何もないけど、このままでは何も変わらない未来しか見えない…どうしよう…でも何からどうすればいいのか分からない、そんな焦燥感。
自分の中にあるそんな“無価値感”を、外側の条件で埋めようとしてもがいていたところに来たこのプロジェクト。
8割の不安と、2割のワクワクで、私はただ突っ走った。
◆異国の地と異文化と圧倒的な大自然
やると決めたからにはやってみよう。怖いとかどうしようとか言っている暇はない。今振り返れば、これはまさにエイブラハムが「やってはいけない」と言っているモチベート。自分のお尻を叩いて動かす行為そのものだった。
南太平洋に浮かぶバヌアツ共和国に降り立った時の記憶は、正直全くない。それほど、毎日必死過ぎて何かを味わう余裕が当時の私には1mmも無かった。いつもちょっと先の予定や処理すべきタスク、アレやコレやで頭も心も忙しかった。私はいつも“ココ”にいなかった。
ただ、そんな私でも胸のときめきが鳴り止まぬほどに、バヌアツの海は見たことないほど透き通っていて、森の色彩豊かな深いグラデーションはずっと眺めていたいと思うほどに美しかった。
「天国に一番近い海」と言われている有料で入れる海も、美しすぎる川下りも、いくつかの真っ青なブルーラグーンも行って、コウモリだらけの洞窟探検や渓谷の川下り、ローカルな村のお宅にお邪魔するツアーもいくつか体験して…と、とにかくネイチャートリートの基本メニューとしてピックアップしていたものを、何日もかけてチームですべて体験した。どこもかしこも見たことのない壮大な自然がそこにはあった。
プロジェクト実行の本拠地は南太平洋に浮かぶ小さな島、頻繁に行き来できる距離ではないため、私たちは一度の視察でたくさんのタスクをこなす必要があった。
一番大変だったのは土地探し。
俺の土地を使うかい?と言うので、視察をさせてもらいに行った。馬に乗せてもらったり、馬と海に入ったり、美味しい食事にお酒に…散々交流をしたのに、蓋を開けたらその人の兄弟の知り合いのおじさんが所有者だったり(遠っ)、また別の土地では売主と会って話をした時から、連絡を重ねるたびに値段がどんどん吊り上がっていったり。
とにかく、日本のようには何もかもがスムーズにはいかない。土地の所有者を特定するだけでもかなり骨を折った。
日中だけでクタクタだったけれど、夜は皆で「カバ」を飲みに行った。カバというのは、植物の根っこの搾り汁みたいなもので、味は泥水。さびれたチケット売り場のような簡素なカウンターでお金を払うと、木のお椀にじゃじゃっとカバを注いでくれる。それを受け取りその辺に腰掛けて飲むのだけど、、、これが…酔っぱらう…というか、頭がブッ飛ぶのだ。笑
とは言え、カバ場は、日本の酒場のようにガヤガヤはしていない。食事もできない。カバオンリー。
陽が落ちてから人々はカバの店にポツリポツリと集まり始め、ローソクの明かりだけの静かな空間の中で、一人一人瞑想しているかの如くもくもくとカバを飲んでいた。私たちもそれに倣ってもくもくと飲む。サイズが大小選べて、大を選べば一杯で確実に飛べる、、、という言い方はアレかもしれないが。笑
カバは、麻薬成分もありつつ薬効成分もあるそうで、バヌアツでは健康のためにも神聖に大切に飲まれているらしかった。お酒が飲めないチームメンバーもカバは大丈夫だったので、気になる方はぜひ?人生で一度体験してみてはいかがだろう。素晴らしいリゾート施設もたくさんあり、人も優しくて人懐っこくて、バヌアツ共和国はとても美しい国だった。
とにかく世界は広い。未知だらけ。泥を飲んでぶっ飛ぶことも、初めての経験は何でもすごく楽しかった。
日本に帰ったら再び資金集めに奔走。あっちもこっちも何もかも忙しくて、正直あまり記憶がない。とにかく必死だったし、とにかくやり遂げたい一心だった。
が、ある日突然プロジェクトは打ち切りとなった。
私は現地に法人を作っていたし、トリート施設の建設予定地も目星が付いていたし、現地の日本人の方ともコネクションができて、間もなくトリート施設を作るためバヌアツへ単身移住するつもりでいた。
でも、私一人でやっているプロジェクトではなかったので、どうあがいても私一人でその判断を覆すことはできなかった。
もっと私が努力していればこうはならなかったかもしれない。圧倒的に能力が足りなかった。勉強不足だった。とにかく私の力不足だったーー。
えぐれる限り、力いっぱい自分をえぐって自己否定をしていた私…確かに不安もたくさんあったし、すごく大変だったし、自分でもどうなるか分からなかったけど、やりたかった。だから悔しかった。
でも今思えば、あれだけの不安の中でどれだけ動いても、そりゃこうなるよね、とも思う。むしろ強制ストップがかかって良かったとさえ感じてしまうほど、私の波動は物事をスムーズに進めるほどの準備はできていなかった。
引き寄せの法則に出会ったのは、そんな頃だった。
(↓こちらがそんな頃の話のまとめ。)
私が自分の無能さを突きつけられて、頑張っても頑張っても無理!という経験をしてある意味「引き寄せの法則を受け取る準備ができた」から、この情報が私の元にやって来たのだろう、と今なら分かる。
エイブラハムの引き寄せの法則を知って、すぐに今ほど理解できたわけではない。それでも、私はすぐにたくさんの望みを引き寄せることができた。それはただ実直に実践をしたから、たぶんそれだけ。
とにかく私は、これまでのようにガムシャラに頑張ることをやめた。むやみに不安を抱くのもやめた、自分を否定するのもやめた、それが望みが叶うことを遠ざけると知ったから。
最初はそれらを辞めることが難しかったから、とにかく感謝した。今の自分の場所から感謝できるものを探して、心を込めて感謝をすることから始めていた気がする。
(↓とにかく感謝を実践した話はこちら)
◆夫が教えてくれた“引き寄せ”の楽しさ
引き寄せの法則を使って、私は様々な望みを叶えることができたけれど、私にとって一番強烈な引き寄せ体験だったのがやはり夫である。
(↓引き寄せの法則を使って夫と出会った話はこちら)
夫との出会いのプロセスは、望みを叶えるためにどれほど何も要らないか、どれほど自分の今の状況さえ関係ないかを思い知る素晴らしい体験だった。そして、夫との出会い〜結婚〜今に至るまで、そのプロセスは、何もかもがとてもカンタンだったし、ずっと楽しかった!!
パートナーに限らずだけど、自分の頭で「こういう人がいい」とか「こういう場所へ行けば出会えるだろう」なんて考えるより、そんなものはすべて宇宙にお任せした方が絶対に効率がいい。
だって宇宙はオーダーメイドだから。自分にピッタリな人と、ぴったりなタイミングで出会わせてくれる。これが引き寄せの法則なのだ。
ウチの夫はだいぶ変わっているけど、今どきこんな人いる?と思うほどに義理堅く、愛情たっぷりユーモアたっぷりに、家族の幸せのためにいつも頑張ってくれる。
「自分が死んでもlovelyと息子が遊んで暮らせるように」
それが彼の口癖であり、彼がビジネスを頑張る動機。
そういうのもうええから!と思うんだけど、それが彼の生きがいらしいので、もう放っておくことにしている。息子が何か欲しがるたびに、また自分が頑張る動機ができた!とばかりに嬉しそうな夫。この間は二人でランボルギーニだか自家用ジェットだかを約束していたよ…「ママも乗せてあげるからね!」だそうで。楽しいね。
そんなふうに、日々感謝をしながら、私は心を込めて余計なこと言わずに黙ってすべてを受け取ることにしています。笑
◆子どもも私が引き寄せた?
結婚して2年くらい経ったころ、子どもが欲しかった私はベランダに寝転んで夜空に向かって「カモーーん!!」とまだ見ぬ我が子を呼んだ。
もう来ていいよ〜準備できてるよ〜さぁカモーーーん!!!
夜風が最高に気持ちよくて、なんだか涙が出た。
人生とは不思議なものだ。
力を抜けば抜くほどうまくいく、どうやら本当にそういうことらしい。ラクに楽しんだもん勝ちなのだ。
今、自分が楽しければ、子どもができてもできなくてもこの先も楽しい。
今、自分が苦しければ、苦しみにフォーカスし続ける限り、子どもができてもできなくても苦しい。
子どもができたら自分は幸せなのに、というのは幻想だ。これは、パートナーにも夢にもお金にもすべてに言えること。
外側の条件が揃わなくても“幸せ”や“感謝”を感じることが、引き寄せの法則の大切なポイントなのだ。
逆に、自分の波動が変わらなければ、いくら外側の条件を整えても、私たちは幸せを感じ続けることは難しい。
波動を整えることが先、物質的な現実はあと。
「今ないものは未来にもない」
これは、私が大好きな岡本太郎氏の「今日の芸術」という本の一節である。彼は別にスピリチュアルな視点でこの話をしているわけではないと思うけど、きっと彼も本当の自分と繋がっているから分かるのだろう。大学生の頃に読んだときは心底意味が分からなかったけど、今は本当にそうだよな~と思う。
今の自分のバイブレーションがすべて。
波動として今ここにあれば、未来にそれを受け取ることができる。
「今ないものは、未来にもない。」
そういうことなのだ。
◆大阪のど真ん中から自然豊かな島暮らし
引き寄せたものの話をもう一つ。
私は子どもの頃からキャンプが大好きだった。
自然が大好きだった。
バヌアツの尋常でない大自然も、夫と一緒に何度も行ったタイやラオスの大自然も、いつも私の胸を躍らせてくれて、私を深い部分で癒してくれた。
「もっと自然の中で暮らしたいー!!」そんな思いが爆発して、大阪のど真ん中のマンション暮らしから、とある島へと引っ越しをしたのが5年前。
今までは、なぜ島に?と聞かれるたびに「夫の仕事で…」と説明してきたけど、ううん、そうじゃない。この島での暮らしは、私が望んで、私が引き寄せたのだ。
そうやって、自分の目の前の現実を「自分の引き寄せだ」とカウントしてみると、そういえばこれ私が望んでいたことだよなぁ〜というものが、案外叶っていたりするもの。
望む現実も、望まない現実も、私たちはすべて自分で創り出している。すべての根源は自分の内側、そうやって意識の中で全責任を背負って自分がそこに立てたなら、引き寄せの法則を意図的に使って人生を豊かにすることは、もうすぐそこ。カンタンだ。
◆直感に従うとは自分を大切にするということ
自分を振り返って思うのは、
私はずっと、計画的に生きること、目標を立ててそれを達成すること、そんな風に目的地から逆算をして生きることが不得意だった。
幼い頃から、気分と直感で瞬発的に選び取る、そんな風にしてすべてを選択してきた。進路も仕事も直感で選んできたし、その方が圧倒的に上手く行ったけど、大人になるにつれて“それではいけない”と思い始めた。周りを見ると、みんなちゃんとしてるから…
もっとちゃんとしないと、もっと計画しないと、先を見据えないと、もっと備えないと、
直感?そんな根拠がないことは信用されないよ、
だって大人なんだから。
エイブラハムの引き寄せの法則に出会って、私は「できない自分」を責めることを少しずつやめていき、自分の直感や気分をまた大切に扱おうと決めた。
小・中の9年間、授業をずーっと脳内でサボり続けてきた私にとって、思考をコントロールするとか、好きなことにフォーカスするとか、望まない現実は無視するとか、そういう引き寄せの法則を意図的に使うために必要な脳内コントロールは、思えば私の得意分野だった。
9年間、自主的に練習し続けてきたことが、こんなふうに繋がって、こんなふうに私を助けてくれることになるとはね。
つくづく、人生は面白い。
◆絵を描くことは自分と繋がる手段
きっと、ずっと、私にとって絵を描くことは、自分と繋がるための手段という意味では瞑想に近いものだった。
自分の感覚に正直に、自分の描きたいものに忠実に、自分の内側を満たすためにいつも“絵を描く”という行為があった。
そして、ただ描くだけで繋がることができた。
それを、いつの間にか他者の評価や上手い下手、それをして意味があるかとかないかとか、そうやって外側に意識を向けて描くようになったことで、私は描けば描くほど内なる存在の視点と自分の思考が離れていき、描くことがただ苦しいものになっていったのだろう。
高校生の頃にあると信じていた「楽しい」のその先は、本来の自分自身と繋がるその感覚。
中田選手が、海外リーグに移籍してトップレベルのチームで活躍してともなお“越えられない”と感じていたあの感覚。
子どもの頃には、きっと誰もが遊びの延長で簡単に味わっていたあの喜びの感覚を求めて、私たちはそれが世界のどこかにあると信じ込んで、今日も頑張っているんじゃないかなぁ。
だけど残念ながら、それは世界のどこにもない。
外側のどこにもない。でも、自分の内側にはずっとあるのだ、ただ私たちが気がついていないだけで。
◆あなたが、わたしが、それをする理由は?
いろんなことがありながら、いつも私の人生の中心にあった「絵を描く」こと。
絵を描くことに象徴されていただけで、私が欲しいのはすべてを自分で決められるというその自由な感覚。
それはつまり「私は人生のクリエイター(創造者)だ」という本来の自分自身であるソースエネルギーの視点と一致した感覚。
子どもの頃は、真っ白な紙の中だけが唯一自分で全てを決められる、完全に自由が許された世界だった。
でも大人になって、エイブラハムの引き寄せの法則を知った今、その自由は白い紙の上だけではないことを知った。
私の人生は、私の思考(波動)によって好きなように創ることができる。私たちは皆、自分の人生を好きなように創ることができるクリエイターなのだ。
だから、絵にこだわる必要はないし、文章に限定することも、今の私にはもう必要のないこだわりなのかもしれない。
不思議なもので、そんな風に思えたことで私はまた絵を描き始めた。(noteに載せている絵はすべて自作)
なぜ描くのか?それは、楽しいから。
自分が楽しいことを『楽しいから』という理由だけで自分にやらせてあげてください。
私は、エイブラハムのこの言葉が大好き。
大人になるとつい
それが仕事になるのか?とか
それで誰が喜ぶのか?とか
どんな得があるのか?とか
人に何を言われるだろうか?とか
そんな思考が自分の「やってみたいな」を止めにかかるのだけれど、私たちはもっと気楽に『楽しいから』という理由だけでそれをしていい、とエイブラハムは言う。
自分にそのパワフルな許しをしてあげられたとき、人生は大きく動き出す。より簡単で、より楽しい方へーー。
こんな長い自己紹介なんて、楽しいから書くの最たるもんだ。人の目や何の意味があるかなんて気にしていたら絶対に一生書けない。だから私は今これを楽しく書けていることがとても嬉しい。
私はこれからの人生、ただ楽しいから!という理由だけで、楽しいことをたくさんたくさん自分にやらせてあげたいと思っている。
これからも、もっともっと、どこまでも広がった感覚で、絵を描いて文章を書いて、そして生きて、何度だってあの感覚を味わいにいく!!
みなさんも、また味わいたい“あの感覚”はありますか?それはいつどんなときの感覚ですか?
以上、自己紹介ーlovelyさんってこんな人ーでした!
最後にもう一つだけ、lovelyさんの名前の由来についてお話しして終わります!私のlovelyさんという名前は、
なぜ私たちは人を愛するのですか?という質問に対するエイブラハムの答え「Becouse, It's so lovely.」から来ています。
愛、感謝、リスペクトを向ける相手がいること自体が、すごくラブリーなことだから。愛を向けること、感謝を向けること、リスペクトを向けること、相手の存在にありがとうと感じること、それ自体がすごく気分がいいから、だから私たちは人間関係を結ぶのです。
このメッセージが素敵すぎて、胸に刻み続けたくて、それでnoteではlovelyさんと名乗っています。
実際に私を知ってくれているみんなも、noteでお会いしている皆様も、これからもこんなlovelyさんをよろしくお願いします。
長文にお付き合いくださり本当にありがとうございました!!!
感想を書きたいな〜そんなパッションが湧いた方はぜひその衝動のままに感想をお願いします!直感は宝◎
じゃあ、またね!
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