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「ジャッジメント」を手放すとは結局どういうことなのか??

こんにちは、lovelyさんです。

今回は、エイブラハムの引き寄せの法則の視点からの、私の気づきについてシェアをしていきます。

さて、皆さんは◯◯警察って出会ったことありますか?あまり耳慣れない言葉かもしれませんが、

例えば、着物警察。

「その着物の格にその帯はしてはいけないのよ!」とか、「その柄は季節外れよ!」とか、「襦袢と着物の袖が合ってないわ!」とか、道端で初対面なのに急にそんなことをいってくる人のこと。

いるらしいんだよね〜そういう人が。
ビックリだよね〜。
私は会ったことないけど。

私自身、着物が大好きで、普段着として着ていた時期もあるし、自分で帯を縫ったり、着物で何泊かの旅行をしたこともあるくらい着物を愛していまして。

着付けはYouTubeで独学で習得したので、フィーリングで覚えたぶん、いろいろと小難しいルールはそこまで深く分かっていないし、伝統衣装とは言えファッションとして個々の自由で楽しめばいいと思っている。

だから、そんな着物界隈で時々耳にする着物警察という存在を、おもろいな〜と思っていた。

洋服だったら、人のファッションにそんな風に、通りすがりにいきなりケチつけるみたいなこと絶対やらないはずなのに、なぜか着物だとやってしまうのよ。不思議。

これって、どういう心理なのかな〜?とふと思ったのだけど、

「私が知ってるルールが絶対」という価値観をまず強烈に持っている。そして「私は正しい」という奢りがあって、「知らない人には私が教えてあげなければ!」という謎の正義感が働き、「私が正してあげるわよー!!!」と相手の気持ちや価値観に配慮せず土足で踏み込んでいる、そんな感じなのかな?

なんか、冷静に考えるとすごいよね。

これ、何がしんどいって、着物警察をしている本人が一番しんどいと思うのよ。

ルールにガッチガチになって、そこまで人の間違いに敏感になっているということは、その監視の目は常に自分自身にも向けられているんじゃないかな〜と思う。

「着物を着る時には間違えてはいけないんだ絶対に!!!!!」そして、「me!me!me!me!私を分かってー!!!」というエネルギーね。

なんかまぁ、大変だよね。笑笑

でもこれ、着物だから自分には関係ないと思うかもしれないけど、対象を別のものにしたときに、自分もやってるかも、、、むしろ、誰もがやってるかも、、、??と思うんだよね。

例えば、オーガニックや食事。

牛乳なんて飲んでるんですか〜??とかさ。
牛乳はダメだから豆乳にしましょうよ〜。
いやいや、豆乳の方が女性ホルモンの働きを乱すから取るべきじゃないよ、アメリカのソイビジネスに踊らされたらダメだよ!!

とかさ。いいの、楽しい情報交換や議論はいいの。でも、自分の考えを「正解」としたときに、他を不正解にしちゃう、ひどいと責めちゃう。

これ、着物警察も一緒だけど同じ行動でも「あなたが大好きだから、あなたが好きそうな情報を教えてあげたいな〜」という波動の中での関わりと、「あなたが間違っているから正したい!!」という波動では、伝わるモノが全く変わってくるよね。

化粧品を買うときとか、私こういうの結構感じていて、私の不足にフォーカスしてそこを埋めるために商品を提案してくれているのか、その商品がただただ好きでめっちゃいいから〜!って愛の中でおすすめしてくれるのか。同じ勧めるでも、受け取るものはかなり違う。満足度も全然違う。オモロいよね。これ、なんでも一緒だよね。

愛の中でgiveするって、本当素敵だなーって思う。
私はそんな人になりたい♡

話がズレたけど、

これ、スピリチュアルも言えて、、

引き寄せの法則だけが、世界の正義でもなければ幸せな生き方でもない。私は大好きだけど、そうじゃない人もいるし、いていい。

この自由さを、私は持っていたいのだけど、ついつい…

私自身、引き寄せの法則が大好きだからこそ熱量高く突っ走ってしまうからこそ、そこは気をつけたいなと思っていたんだよね。自分に対しては熱くても突き詰めてもいいけども、同じ熱量を他者に求めないように気をつけよーみたいな。笑

そう思っていたんだけど、

でも、分かっちゃった。笑

そういう、意見の違い、在り方の違いも、結局自分が愛と繋がると全部どうでもよくなる、ということを。笑笑

ここでも書いたように、

徹底的に自分を尊重し、自分に愛を注いでいると、人に理解されたいとか、人に褒められたいとか、人に感謝されたいとか、人に労って欲しいとか、

もはや、人に愛されたいとさえも思わなくなってくる。

だって、そんなの関係なく私は幸せだから。
いやほんとに!!

そうなると、いつどこで誰が何を言っていても、いいねいいね〜て思ってしまう。笑

要するに、無条件の愛の眼差しで見てしまうんだよね。笑笑

以前の私のように、

着物警察とかなんなん!って思っていること自体が、着物警察さんを不正解にしてジャッジメントしていたということ。そうやって、「自分の考えを押し付けてはいけない」という考えを押し付けて相手をジャッジしているから、自分も押し付けてないか?ビクビクしちゃう。

結局、私自身が「間違えてはいけない」と自分を監視していたというわけ。「正解」「間違い」と決めているものが、私と着物警察さんで違っていただけ、他者に言うか自分に言うかの違いはあれど、内側でやっていることはほぼ同じ。

笑笑笑笑笑笑 わらーーーーー。笑

これ分かる??笑

ま、人間ですからね。それも込みで私たちはこの地球に楽しみに来ているわけで、別に神になれって話じゃないから、ジャッジメントをしても正解不正解を掲げても、究極なんでもいいんだけど。笑

ジャッジメントをしてもしなくても、
手放しても手放さなくても
私たちは無条件に愛されているから
結果なんでもいい。

無条件の愛に繋がると、人はなんでもいいし、どうでもいい。そうなると、自分がどう見られるかもどうでも良くなる。そこなのよ!(これ、片付けの記事でも書いたよね)

深い愛につながると、いい意味で全てどうでも良くなるというか、それこそ上の記事のように自分も相手も「尊重」してしまう。

私も同じ考えだからあなたを尊重できる、ではなく
もっと無条件に、それさえ関係なく相手を尊重してしまう、そんな感じ。

なぜそうなるか?私が私を尊重しているから。

要するに、

「人」に対して気にしていることは、すべて「自分が自分」にしていること。

この視点を持つと、自分の内側で解放が起きていくよね。

コロナのマスクも、
芸能人の不倫も、
メディアが煽るいろいろも、

自分に一切関係ないことなのに、なんでみんなそんなに腹を立ててるんだろ〜と心底謎。

きっと、自分が我慢してるから、人も一緒に我慢して欲しくなっているだけ。

矢印を相手に向けず、自分は何を我慢しているのかな〜?って見て、それを解放してあげるだけ。

無邪気でふざけてばっかりの子どもに、腹を立てるのは、自分が無邪気にふざけることを禁止しているから。「ちゃんとしなきゃ」って頑張ってるから。だからそれを簡単にやってのける子どもたちに腹立つんだよね。

泣いている子どもに苛立つのも同じだと思う。泣きたい気持ち、大人だって我慢しなくていいよ。

目の前のこと、自分が強く反応していることは、全部自分の内側の話ってことが分かると、どんどん心は軽くなる。

自分の中の愛に繋がると、人の行動になんも思わなくなる。笑笑

私たちの愛はいつも自分の内側にあるのだ。

「愛を求める先を間違えないでください」byエイブラハム

愛を人に求める必要はない。
愛はいつも自分の内側にある。
無償の愛は、常にとめどなく流れている。
 
ジャッジメントを手放すとは、自分自身を無条件に愛するということなんだよね。

手放す手放す手放す!と思わずに、自分を愛そう。自分の愛と繋がろう。自分を厳しく監視しないで、温かな視線へと緩めてあげよう。

あーーー!またややこしい内観の話をしてしまったー!笑笑

面白いけど小難しいな!
私はもっと簡単に幸せになりたいのよ!
って方はこちらをどうぞ♪

引き寄せの法則はもっとカンタン。
複雑な内観は単なる私の趣味なので♡
そこはあまり結びつけなくてもいいのかな〜と思います、とりあえずはね。

では、また!

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