自分の記憶にはないとしても、ちゃんと愛されている
シャボン玉をつかもうとして
手をのばして遊んでいる園児さんたちを見かけた。
まだ1歳と半年ぐらいかなあ。
よちよちと歩く姿が愛らしくて
思わず目を細めてじっとみつめてしまった。
保育士さんがフーッとシャボン玉を飛ばすたびに
よちよちとした足どりで追いかけようとする。
一心に見つめて手を伸ばす姿があまりにも愛らしくて
しばらく足を止めて眺めてしまった。
こんなに楽しく無邪気に遊んだこの光景を、
この子たちが自分で記憶しておけたらいいのになあ。
眺めながら、しみじみとそう思っていた。
子どもは自分の赤ちゃん時代のことを
自分では覚えていない。
その時期の記憶が残っていないことが
本当に惜しいことだ、、とつくづく思うようになったのは、
娘たちが小さかった頃の写真を彼女たちと見ていた時に
懐かしさにウルウルきているのが私だけだと気づいたからだ。
そうか、記憶に残ってないんだ!
考えてみたら当たり前だ。
この笑っている赤ちゃんがあなただよ、と
言われなければ当人にはわからないし
自分の顔を見ていたわけじゃないんだから
懐かしくなりようがない。
そういえば私が子供の頃に、
自分のアルバムに挟んであった赤ちゃんの写真を
てっきり自分だと思い込んでいたら
それは”はとこ”の写真だった、ということがあったなあ。
自分の人生の始まりの何年間かが
まったく自分の記憶に残っていない、というふうに考えると
自分のことなのに自分のことだという実感がない、
という不思議な感覚を覚える期間だ。
その時期に愛されたことって、
記憶には残っていなくても
人格形成だとか潜在意識だとか
自分に意識できないところでは影響がしっかりあるんだとは思う。
でも私が思うのはそこではなくて、
こんなに無条件に愛されていて、
こんなに無邪気だった自分というのを
ああ、そうだったそうだった、と
実感として思い出せたらすごく幸せだよなあ、という
単純な思い。
努力とかやる気とか関係なくて
下手でもなんでも心から拍手してもらえる。
ほんとに幸せな時だなあ。
私の父親は初孫が生まれた時に
「娘(私のこと)は可愛いと思わなかったけど孫は可愛い」と、
どこまで本気かわからないけれどそう言っていた。
それでも、
公園で見かけたシャボン玉の子のように
私にもああいう幸せの時間があったのだろうなあと、
自分で良いように空想しておこう。
この時期のこと
保育士さんにならなかった
保育士さんのジレンマ現代版
大声だめ呼び捨てだめ
自分の子供時代