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自分ができること
思うところがあって「アバター」をディズニープラスで観ました。
公開時に観たことは覚えていて、人間がアバターと脳で繋がるみたいな話だったことと、人間が彼らと戦うことと、最後は主人公がアバターになるという、本当にざっくりしたことしか覚えていなくて、まるで初めて観るように楽しみました。
今、学んでいることとシンクロしている描写が多くて、それもあったのかもしれないけれど、当時はこんなに大切なメッセージが描かれていたなんで、これっぽっちも思いを致しませんでした。
教訓めいたことを覚えたいたとしたら、自然破壊は良くないよね、植民地支配は傲慢だよね、不自由な身体で地球に戻るよりも、この世界で生きていたいよね、くらいでしょうか。浅すぎ^^;
ポカホンタスにも通じるような、もっと言うと、もののけ姫の警鐘にも通じるようなことが描かれているのですが、警鐘というよりも、人間はそもそも自然の一部なのだから、大自然から叡智を学び、脅威にひれ伏し、それを克服するのではなくて、受け入れつつ、より順応して生きていくことを選択するということではないかと思うのです。
環境破壊による自然災害や、主義主張の違いによる紛争など、遠くの世界で起きている出来事を、自分には関係ないと蓋をするのではなくて、自分の無駄な買い物や、自分の中での小さな諍いが、人類の集合無意識を通してそこに現れているのだという認識を持った方がいいでしょう。
直接山火事を起こしたわけでも、直接戦場に赴いているわけでもないけれど、今世界で起きていることを、我がこととして受け止める責任を、人々が持つことができたなら、世界は少しずつ、パラダイスに近づいていくのだと思います。
世界中の教会や寺院や神社や祈りの場で、世界の平和が祈られているけれど、そして様々なクリエイターが、映像や文字を通して、メッセージを発信しているけれど、受け取る私たちが、それらを自分のことに寄せず、誰かを悪者にして、誰かを責めているように思います。私もです。
阪神淡路が30年前、東日本が13年前、そのたびに「自分にできることはなんだろう」と、いろんな影響力を持つ人たちがメッセージを発してきました。
直後に現場に乗り込むのは、むしろ自衛隊やDMATの方達の邪魔になります。とりあえずどこかに救援物資を送るというのも、それを配布するシステムができていない場合、誰が受け取って、どう配るのよ?という問題があります。
そんな時に自分たちができることは、買い控えることとか、そのお金を貯めておいて、少し落ち着いた時に然るべき団体に義援金として振り込むとか、自分だったらこの場合どうするだろうというイメージをすることなどでしょうか。
親しい人がその地にいた場合には、そんな悠長なことも言っていられないでしょうけれど、居ても立っても居られないという状態は、自分を無駄に消耗させるだけのようにも思います。
話が逸れました。
アバターの舞台となる星は、すべての生命体は繋がっていて、木々も動物たちも、精霊が宿り、その記憶は星自体に蓄えられるという設定です。
ちょっと待って、それって地球も本来はそうなのでは?と、映画の途中で気がつきます。
自然と共存というよりも、人間は自然の一部として、ずっと存在を許されていたけれど、聖書の時代になり、人間には他の生物を支配する役目を神から与えられたという設定になります。
支配するというのは、蹂躙するという意味ではなくて、統治するとか、司るとか、世話をするという意味なのだろうけれど、傲慢になった人間は他の動物たちを支配し、コントロールし、我が物として扱うようになります。
それが昂じると、動物だけではなくて、違う種族の人間に対しても、そのような支配を向けるようになります。
洋の東西を問わず、そのような残酷さは人間に特有のものかもしれません。
西洋はもちろんですが、中国も王朝を滅ぼす時には血縁を根絶やしにしたそうですし、日本でもそこまでの根絶はなくても、お家断絶というお仕置きがありました。
一部の猿の群れにおいて、ボスザルが変わる時には、前のボスの血統は殺されるらしいという話を聞いたこともあります。ただし、ニホンザルの社会では比較的穏やかに交代が行われるそうです。猿も日本は平和なのですね。
話がまた逸れました。おばちゃんの話やん笑
首都圏に住んでいて、利便性を享受している身として、あまり偉そうなことは言えないのですけれど、地球によって生かされているという謙虚さを、一日一回でも思い出すようにしたいと考えています。
実際には朝起きた時、カーテンを開けて太陽が出ていても出ていなくても、お天道様に感謝をすることと、夜寝る前にノートに向かって、その日のあれこれだったり、これまでの人生のあれこれだったりを書き連ねることです。
この習慣によって、傲慢だった自分も相当謙虚になってきたように思います。あくまで自分比です^^;
この世界のために、地球のために、自分ができることは、目の前の問題をコツコツと解決していくことなのだと思います。
意識において、世界とつながることも大切だけれど、具体的な行動をもって、より良い世界を目指していくことは、肉体を持つ身として、偉大なる何かから望まれていることなのだそうです。
偉大なる何かは、人をして、何かを成さしめたいらしいです。
何をするのかは、それぞれの天分によるので、自分が自分らしく、身近なことから、気持ちの良いことをすればいいと思います。
ゴミを拾うとか、席を譲るとか、レジでありがとうと目を見て言うとか、そんなことから始めてみると、自分の周りの世界が少しずつ平和に近づいていきます。
世界平和って、そんなことの積み重ねなのではないかと思ったりしています。