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自由と自在
自由ってなんだろう。
好き勝手とかわがままとは違いますね。
自由に選んでいいよと言われても、例えば「この中から」という制限がつくだろうし、自由に遊んでくださいと言われても、そこにある道具や場所でという条件が付くでしょう。
そもそも自由とはどういう状態でしょうか。
束縛されない、気兼ねのない、解放された状態、自分の好きなことができるなど、もしくは嫌なことはしないなど、選択と決断と行動がセットになって、与えられている状態と言えるのではないでしょうか。
自分を縛る鎖のようなものから、解き放たれている状態というイメージです。
自分を縛る鎖というのは、すなわち思い込みや観念など、ねばならない、こうすべきという、いつしか身についてしまった思考の癖だったりします。
それでは自在とはどういう状態でしょうか。
自由を手に入れて、さらにそれを使いこなす技術というか、手練の状態であること、自分の自由を制御できる状態であることと言えるでしょうか。
自覚的であり、自由でありながらも選択的にその状態をコントロールでき、制限さえも自分に課して、それを享受するような状態というイメージです。
あえて困難な道を選び、自分のステージを変えていくことは、自由であり、かつ自在である生き方だと思うのです。
自分がどうありたいかを考える時、最終的には自由であり、自在であることかなぁと思います。
お金が欲しいとか、家が欲しいとか、何かを得たいというのは、その途中の状態で、そこからどうしたいのかということが人として大切なのだと思います。
自分が満ち足りた状態であるからこそ、他者のことを慮る気持ちが芽生えるのであって、自分がペコペコでカラカラの状態の時に、他者に分け与えるのは、我が子以外には考えられないと思うのです。もしくは余程の聖者であるとか。
満ち足りて次の段階、さらに次の段階とステージが進み、ようやく自由を手に入れることが出来るのですが、その自由というのは「経済的な自由」「社会的な自由」とでも呼ぶもので、本当の自由って言えるのかな。
けれど、本来私たちは、自由であり、自在であるはず。
自由意志によって選択して行動して、その結果を享受しているはず。
経済的に自由であるというのは、お金のためにあれこれと制限をかける必要がなくて、お金の心配をしなくても良い状態ということであって、けれどもお金持ちがお金によって不自由な思いをしていることを私も何例かは知っています。
失う恐れや、お金を持っているからこその悩みや責任の重みなど、さらには相続の心配など。
そんな心配とは無縁で良かったとは負け惜しみでなくわりと本気で思います。
先祖から受け継ぐものは、むしろ不自由な生活を強いられるものかもしれません。
土地家屋、家業、伝統など、その規模が大きければ大きいほど、責任も重く、自由とは離れていきます。
その最たる家系が皇室です。家訓が厳しいどころか、皇室典範という法律で縛られています。
日本と世界の平和を祈るというたいへんなお役目を担う家系ですから、そのお覚悟は平民には窺い知ることもできませんが、日本人がある意味では自由に生きていけるのは、皇室の祈りによるところも大きいのではないかとも思います。
さて、自由と自在についてです。
自由意志で何かを選ぶにしても、自在に生きるにしても、自由な暮らしを満喫するにしても、そこには他者との関わりがあり、自分が紡いできた縁起があり、そこから完全に解き放たれるということはできないと思います。
誰にも何にも干渉されずに、糸の切れた凧のように空に舞い上がったとしても、糸のコントロールがあってこその凧であったと、凧はそのうち気がつくのだと思います。