フェラーリは信仰である

私はフェラーリを愛している。



いや、これは抽象的すぎる。



1950年に始まったFormula 1、いわゆるF1に唯一初年度から継続して参戦しているチームとしてのフェラーリの文化を愛している。



文化というまた曖昧な単語を使ってしまった。



一般的な自動車メーカーとしてのフェラーリは、



ご存知の通り大量生産をしない。



職人が携わる割合が高い。



それによっておそらく世界一美しいデザインと性能、ラグジュアリティーを融合させた最も有名な自動車ブランドの一つだろう。



「フェラーリには不思議な魔力がある」



と述べていたのは自動車評論の大御所だった故・徳大寺有恒さんだ。



スポーツカーはたくさん生まれては消えてきた。



それでもフェラーリだけは超高級・高性能スポーツカーのみを販売してきた。



これを認めてきたイタリアの認識が大きいように思う。



F1のフェラーリチームの熱狂的なファンのことをTifosi(ティフォーズィ、日本語発音だとティフォシ)と呼ぶ。



彼らにとってフェラーリは全てなのだ。



愛国心と並列かもしれない。



F1の歴史はフェラーリの歴史である、故のプライドなのだ。



そのプライドとイタリア人の団結が融合するのが、モンツァで開かれるイタリアGPだ。



2010年代のフェラーリは成功しているとは言い難かった。



その中で2010年にはルノーから移籍したフェルナンド・アロンソが、



2019年にはフェラーリ育成組織出身のシャルル・ルクレールがどちらもフェラーリ1年目でモンツァ優勝を果たした。



お祭り騒ぎどころではない。



何万人ものティフォシがフェンスをよじ登ってコース上になだれこみ、



赤い発煙筒を炊き、外国人も一緒になってイタリア国歌を大合唱する。



この瞬間には全ての差別的感情は一掃される。



私は2003年にミハエル・シューマッハ、2004年にはルーベンス・バリチェッロの勝利を現地で味わった。



隣にいたイタリア人の同じ小学生とハグをし、表彰式では知らないおっちゃんが肩車をしてくれた。



フェラーリは文化だと言った。



情熱、歴史、敗北、共存、人種、勝利、欲望、、、



フェラーリはその全てを知っている。



イタリア人には当たり前かもしれない、



ただフェラーリへの愛を共有させてくれるティフォシとチームがいる限り、



私もフェラーリの魔力を受けてしまった人間として、



深紅の跳ね馬を愛さずにはいられないのだ。

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