千住には「遊郭」の歴史があった
亡母の墓参りの花(コスモス)を売る花屋をネットで捜していた。
好きだった花を持って1か月遅れくらいで行くつもりだ。
候補の花屋のそばに「遊女供養塔」という文字が地図に載っている。
遊女供養塔が駅の近くにあった
地図に載っていた「金蔵寺」は北千住駅徒歩3分、飲み屋横丁の西側。
さっそく、行ってみた。花屋でのコスモスは猛暑で9月まで待つことに。
関東大震災前頃「千住遊郭」が千住柳町に移った
ネット検索すると、宿場町通りにあった「千住遊郭」が千住柳町に移った。
20年前に住んでいた一帯は、それらしい地名だったなと思い出した。
千住寿町、千住柳町、その先に大門商店街
風流な町の名だ。
「千住遊郭」柳新地
移転前の「千住遊郭」どこ
北千住駅前通りを旧日光街道(宿場町通り)で右に入ってすぐに、
ちょっと前100均、現在カフェの所に左に入る細い路地がある。
10年程前までは、八百屋、昔ながらのラーメン屋(義母が好きだった)があった場所だ。今は二つとも閉店し、抜け道となっている。
宿場町通りから路地を入ったところではないか。
移転前の「千住遊郭」については、いつの日か。もっと分かれば。
移転先
移転先の
千住柳町の写真と思われる。
大門商店街の北側、碁盤の目の道のあたり、らしい。
千住柳町は、たぶん千住寿町より栄えていたのかもしれない。
建蔽率がなぜか、千住柳町だけが80%で、周囲の寿町などが60%。
戦前から、密集して建物があったのでしょう。
柳町住区センターの西側一帯と思われる。
古くからある道
古くからある道は、道が東西南北の無機質な作りではない。その傾いた道で地名が分けられている。
千住遊郭の道
千住2丁目と千住3丁目の境は、駅前通りの太い道ではなく、
33番地、76番地の道になっている。
柳町へ続く道
斜めの抜け道、シュートカットして歩く人・自転車が多く通る。
斜め道が町の境目、南側が「千住龍田町」北側が「千住寿町」「千住柳町」
千住4丁目から龍田町へ抜ける道
正面は寿幼稚園の壁、曲がっている道、この写真の右手前に住んでいた。
昔の壁には、園児の卒業制作の素焼きの「自分の顔」が並んでいた。
ここを抜けると、向こう側が千住柳町。
細い道をもっと進むと、大門商店街に抜けられる。
余りにもぐちゃぐちゃで訳の分からなくなる迷路の町も困る。
完全に整備された、東西南北太い道の町は新興住宅地だ。
古い曲がった道は、昔の道だ。
東西南北にとらわれず、傾いた道が昔の道だ。
千住は程よく、きちんと昔の道が残っていると感じる。
終りに、追加情報
思い違い、間違いがあるかもしれません。修正していきます。
千住の町、足立区、まだまだいろいろあります。
千住には、江戸時代から近代にかけて文人が多く住んでいました。
江戸時代の建物が残る千住。空襲を逃れた文化財の収集が進んでいます。
高名な学術雑誌へ、掲載されたと聞いています。
足立区郷土博物館が編集している「足立史談」の一例をご覧ください。
https://www.city.adachi.tokyo.jp/documents/26107/shidan604.pdf
琳派の絵画、俳諧、、、、
私の及ばない分野ながら、いずれ紹介はしたいと思っています。
旧家の蔵から、多くの文化財を郷土博物館が集めていました(今でも)。
お化け煙突など、地域の話題も載っています。
これは、少し得意。小学校の頃見ました!
続きを、お楽しみに。
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