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千住には「遊郭」の歴史があった

亡母の墓参りの花(コスモス)を売る花屋をネットで捜していた。
好きだった花を持って1か月遅れくらいで行くつもりだ。

候補の花屋のそばに「遊女供養塔」という文字が地図に載っている。


遊女供養塔が駅の近くにあった


地図に載っていた「金蔵寺」は北千住駅徒歩3分、飲み屋横丁の西側。
さっそく、行ってみた。花屋でのコスモスは猛暑で9月まで待つことに。

花屋 近くで検索中に Googleマップに「遊女供養塔」が
金蔵寺 観音様 
金蔵寺 入ってすぐ右 六地蔵


 

関東大震災前頃「千住遊郭」が千住柳町に移った

ネット検索すると、宿場町通りにあった「千住遊郭」が千住柳町に移った。

20年前に住んでいた一帯は、それらしい地名だったなと思い出した。
千住寿町、千住柳町、その先に大門商店街

風流な町の名だ。


「千住遊郭」柳新地

「千住遊郭」は、大正10(1921)年3月に郊外の「柳新地」(現・千住柳町)に移転します。

 関東大震災(大正12(1923)年)以後は板橋・吉原などからも移ってきて、56軒の楼が立ち並び繁栄しました。

江戸史跡散歩 千住柳町


移転前の「千住遊郭」どこ

この町アーカイブス
元八百屋 元ラーメン屋の建物は最近取り壊された。
突き当たって右に本町小学校プールあり

江戸期の「千住宿」は「江戸四宿」の一つとして賑わいを見せ、遊女もいる遊興の地としても発展した。明治期に入ると「千住芸妓組合」が結成され、その見番(事務所)が置かれた。写真は1962(昭和37)年の「見番横丁」。
明治・大正期に見番があった場所、江戸期に「千住宿」の本陣があった場所となる。

この町アーカイブス

北千住駅前通りを旧日光街道(宿場町通り)で右に入ってすぐに、
ちょっと前100均、現在カフェの所に左に入る細い路地がある。
10年程前までは、八百屋、昔ながらのラーメン屋(義母が好きだった)があった場所だ。今は二つとも閉店し、抜け道となっている。

宿場町通りから路地を入ったところではないか。
移転前の「千住遊郭」については、いつの日か。もっと分かれば。


移転先

移転先の
千住柳町の写真と思われる。

この町アーカイブス

写真は現在の「見番横丁」で、この先の右手に見番についての説明板が設置されている。

この町アーカイブス

大門商店街の北側、碁盤の目の道のあたり、らしい。

千住柳町は、たぶん千住寿町より栄えていたのかもしれない。
建蔽率がなぜか、千住柳町だけが80%で、周囲の寿町などが60%。
戦前から、密集して建物があったのでしょう。

狭い道
ここも狭い

柳町住区センターの西側一帯と思われる。

古くからある道

古くからある道は、道が東西南北の無機質な作りではない。その傾いた道で地名が分けられている。

千住遊郭の道

千住2丁目と千住3丁目の境は、駅前通りの太い道ではなく、
33番地、76番地の道になっている。

柳町へ続く道

斜めの抜け道、シュートカットして歩く人・自転車が多く通る。
斜め道が町の境目、南側が「千住龍田町」北側が「千住寿町」「千住柳町」

千住4丁目から龍田町へ抜ける道

正面は寿幼稚園の壁、曲がっている道、この写真の右手前に住んでいた。
昔の壁には、園児の卒業制作の素焼きの「自分の顔」が並んでいた。
ここを抜けると、向こう側が千住柳町。
細い道をもっと進むと、大門商店街に抜けられる。


余りにもぐちゃぐちゃで訳の分からなくなる迷路の町も困る。
完全に整備された、東西南北太い道の町は新興住宅地だ。

古い曲がった道は、昔の道だ。
東西南北にとらわれず、傾いた道が昔の道だ。
千住は程よく、きちんと昔の道が残っていると感じる。

終りに、追加情報

思い違い、間違いがあるかもしれません。修正していきます。
千住の町、足立区、まだまだいろいろあります。

千住には、江戸時代から近代にかけて文人が多く住んでいました。
江戸時代の建物が残る千住。空襲を逃れた文化財の収集が進んでいます。
高名な学術雑誌へ、掲載されたと聞いています。

足立区郷土博物館が編集している「足立史談」の一例をご覧ください。

https://www.city.adachi.tokyo.jp/documents/26107/shidan604.pdf

琳派の絵画、俳諧、、、、
私の及ばない分野ながら、いずれ紹介はしたいと思っています。
旧家の蔵から、多くの文化財を郷土博物館が集めていました(今でも)。

お化け煙突など、地域の話題も載っています。
これは、少し得意。小学校の頃見ました!

続きを、お楽しみに。


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