重度障害を抱えながら働くこと
めでたく結婚をした後も私は同僚たちの手を借りながら働いていた。
週に5日のフルタイム勤務をしながら家事をするのは本当に大変だ。
ここに育児も加わって頑張っている世の中のワーキングママさんたちを本当に尊敬する。
結婚してから、私の実家の近くの中古住宅を購入し、バリアフリーに改装して引っ越した。
実家を出てから、階段を昇降する機会がほとんどなくなったため、私の脚力は益々衰えてしまった。
職場内を歩くのにも片手に杖、もう片方は誰かにつかまらないと歩けなくなり、トイレに移動するにも誰かに頼まなければならなくなった。
最初のうちは、トイレまで連れて行ってもらえばあとは自力で出来たのだが、そのうち立ち上がるのも難しくなってきた。
これは病気のせいなのか、私の骨格に問題があるのかわからないが、立ち上がろうと膝に力を入れると、グキッと膝骸骨が脱臼してしまうことが度々起こるようになった。
これが激痛で、こうなると痛みでしばらく動けなくなるのに加え、膝が腫れて水が溜まってしまう。
職場のトイレでこれが起こると、付き添ってくれた同僚に立ち上がりのサポートと衣類の上げ下げもお願いすることになり、トイレの時間も長くなってしまう。
自分のせいで同僚たちに負担を負わせていることに申し訳ない気持ちでいっぱいになるのと同時に、立ち上がることさえも出来なくなってきている自分に腹が立った。
なんでこんな病気に私はなってしまったのか。
これまでも色々なことを諦めざるを得なかった。
アメリカ留学時に役立ったピアノを弾くことも、ブーツ以外の靴を履いて街を歩くことも、動きやすさを考えずにオシャレすることも・・・。
出来るだけ筋力を維持しようと、毎日必死に動こうとしているのに何故それ以上のものを奪われなきゃいけないのか。
こんな悩みを抱えていても、職場の方たちの前では元気に振る舞っていた。
これ以上、迷惑をかけたくない、そんな一心だった。
私の知る限り、介助が必要なレベルで働いている人は見たことがなかった。
どこまで頑張れば良いのかも、お手本に出来る人がいなかったので、自分一人で考えていくしかなかった。
膝の脱臼は日に日に悪化し、何とか治せないか必死にネットでリサーチし、膝脱臼の手術が得意な医者を見つけ、コンタクトをとった。
その医師の診察を受診できる病院はやや行き難い場所にあったが、夫がいつも連れて行ってくれ、そこで手術を受けることになった。
手術をしても私の場合は筋力が弱いので、治るかどうかはわからないと言われていたが、それでもどうにかして自力で立ち上りが出来るようになりたいと思い手術に挑んだが、私の願いは残念ながら叶わなかった。
手術の直後は脱臼しなかったが、間もなくしてまた脱臼し始めてしまい、それからは立ち上がりにも毎回介助が必要になってしまった。
車の運転も厳しくなり、車の運転という私の好きなことがまた一つ奪われた。
こんな状況になっても、職場の同僚たちは私をサポートし続けてくれた。
同僚たちには本当に恵まれたと思っている。
私はもう今の同僚たちと共に働ける仕事を失ったら、他で受け入れてくれる場所などないと思った。
本当に自分は周囲のお荷物にしかなっていない。
出来なくなることが増えてくると、こういう心理状態になるのだろう。
その当時、私にとって唯一自立できていると思えたのはフルタイムで仕事をしていることだった。
経済的に自立できていることが、家族に対して私ができる唯一の恩返しだと信じていたので、同僚に対しての申し訳なさを感じながらも甘えさせてもらうしかなかった。
私は同僚たちへの恩を仕事で返そうと必死だった。
イヤな仕事も我慢してやり、私にはキャリアアップする資格などないと思い込み、意見があったとしてもなるべく我慢していた。
こんな事ばかりしていたので、胃腸を壊すことも度々あった。
今思うと相当追い込まれていたなと思うが、仲の良い同僚たちとの楽しく話せる時間があったからなんとか続けられていたのだと思う。
介助が必要な重度障害者が健常者のように仕事をするためには必要な配慮が提供される場でないと難しい。
障害者個人で解決できる問題ではないので、どんな職場にも、身の回りのサポートをしてくれる人が職員として常駐していてほしい。
ボランティアベースの介助では、やはり双方にとって負担が大きすぎると思う。
現在の法律では、就労、通勤、通学時等に公的なヘルパー制度を利用できないという謎のルールがある。
働く意欲はあるのに、働けなくなる状況が生まれてしまう事を政治家の方にはよく考えて頂きたい。
私のような重度障害者が、通勤してフルタイムの仕事ができたのは、ボランティアで介助してくれた同僚たちのお陰だ。
人間ってこんなに温かく優しくなれるのかと、彼らを通して学ばせていただいた。
本当に彼らと出逢えたことに感謝しているし、やはり私は人に恵まれていると改めて感じる。