歴史・社会にみる、差別と偏見とは何かー国立ハンセン病資料館を訪れて
去る11月中頃、国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)を見学する機会があった。「ハンセン病」と聞いて皆さんは何を思い浮かべるだろうか。
今回は、常設展・企画展を訪れた筆者の感想をしたためる。
ハンセン病とは何か
「ハンセン病」とネット検索すると、厚労省と日本財団の説明が上部ヒットする。以下引用の通り。“最も感染力の弱い感染病”とされる一方、その症状(外見)から、聖書でも書かれるように、差別の対象となってしまったと。
(聖書では、「重い皮膚病」とあり、想定される:諸説あり)
筆者も初めて知ったのは、自身がクリスチャンということもあり、聖書の記述であったが、実際にどのようなものであったかということは漠然としたイメージであった。
日本においてはどうだったか
日本史を紐解くと、部落差別や(旧)優生保護等さまざまに出自の有無に関わらず差別があった。それは、少なくとも中世の頃からいわゆる身分制度という名のヒエラルキーが存在していたとされる。「ハレとケ」という言葉を耳にした方もおられるかもしれないが、日本古来の伝統行事・生活にも様々に現れていた。本来あってはならないことだが、生活に溶け込んでしまっている無意識の差別とでも言えよう。
筆者は被差別部落史を専門とされているの指導教官のもと、近現代史の勉強を少しかじり、自由民権運動とキリスト教の関連性について研究したことがある。
当時研究対象としていた、時代を再考すれば、なぜ人々が、“民権・人権”を求めていたか。それは、ごく当然のことだったのかもしれないとつくづく思う。全ての人が差別されることなく、自分の考え・思い、そしてそれに基づく生き方。見た目等も同様だ。現代では当たり前のことが、“そうではない”諸相が積み重なっていたのである。
少々脱線したが、ハンセン病患者の方を取り巻く状況は2003年にもひどい事案があった。
それは、「宿泊拒否事件(黒川温泉事件」)」。詳細は、下記リンクに譲るが、ハンセン病療養所に入所されていた方が故郷を訪ねた際、ホテル側から「ハンセン病の元患者は宿泊させることはできない」「他の宿泊客に迷惑がかかる」との理由から宿泊拒否されたというもの。
ホテルの判断に対し、多くの非難が寄せられたのは当然。日本弁護士連合会も「ハンセン病元患者に対する宿泊拒否に関する会長声明」を発出し、大きな社会問題と同時に、依然として残る差別が明らかとなった。
「らい予防法」廃止、国の過ちが認められる。
前後するが、司法・立法の経過をおさらいする。
平成8年(1996年)4月1日に「らい予防法」は廃止された。それまで国は何をしていたかは、後述の見学時に撮影した写真に譲るが、その後、療養所に入所されている方々の医療、福祉及び生活の維持を目的とした「らい予防法の廃止に関する法律」が施行された。
その後、平成10年(1998年)7月、ハンセン病の元患者の方たちが、「らい予防法」を40年以上にわたって放置した国の過ちを問うため、熊本地方裁判所に「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟。
この裁判で、熊本地方裁判所は平成13年(2001年)5月、元患者の方たちに対する人権侵害について国と国会の責任を認める判決を下し、その後、国は控訴を断念し、謝罪。
また、差別に苦しめられた家族は、16年に提訴、19年に熊本地裁が国の責任を認め賠償を命じ、「ハンセン病元患者家族に対する補償金の支給等に関する法律」が同年施行された。同法には、以下のように記載がある。
こうした歴史を私たち世代(少なくとも当時を知らない)がどう考えるか、非常に重要ではないだろうか。
ハンセン病資料館を訪れて
筆者は、仕事の関係で国立ハンセン病資料館『「らい予防法闘争」七〇年 ―強制隔離を選択した国と社会―」』を見学させていただいた。写真のキャプチャをご覧いただきたい。
まだまだ大切なこと、振りかえらねばならない歴史事実がある。
常設展では、当時の療養所の様子が展示されており、自分が同時代に生きていたらどう考えるか。「重監房」という懲罰用の建物内のモデルが設置されているが、内部は暗闇そのものであった。ここに閉じ込められ方は何を思っていただろうか。
差別、懲罰、それは、心身ともに生きるという“光”を奪ったかもしれない。
生きるとは何か、いのちとは何か。
資料館で改めて、人間のかけがえのなさを感じることができた。
企画展示は、12月10日まで。