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フジテレビ長時間会見について思うこと

遅ればせながら、フジテレビ記者会見を見ました。
(全部ではないけど)

まず思ったのは、
「女性を接待要員なんて考えたことはございません」とか言わず「思っていました。だけど間違っていたと気づきました。本当にごめんなさい」って言って欲しかった。

私は「このことが聞けたら社会が良くなる一助になるのに」という気持ちのこもった質問や回答を聞きたかった。そう思える質問はあったし、本当に尊敬するような質問をした記者さんもいて、見つけたらリピートして聞くほど感動したけれど、ほとんどが糾弾目的の質問だった気がします。

だけど私は糾弾する記者さんひとりひとりに聞きたいと思った。あなたは女性を接待要員だと思ったことはないですか?あなたがこちら側にいたら、こうはなりませんでしたか?と。

私は女性を接待要員だと思ったことがあります。男性に対しても思ったことがあります。もしも私が彼らの立場なら、「まずいことになった」が先行して、より偉い人の判断に静かに従ったような気がします。つまりここで糾弾される人や関係者の心に巣食っている呪いのようなマインドは、少なからずきっと私の中にもあるなと思いました。

だから私も、会見から何かを学びたかった。私の中にある偏見や古い価値観を、少しでも変えてくれる会見を期待していました。だってすごく長いって聞いたから。

会見は終始、学校で廊下に立たされている人たちのようでした。罰みたいでした。見せしめなんだなと思いました。自分たちの何が悪かったか、当該女性がどんなひどい目にあい、自分たちがその出来事をどのように助長または許容したか、どうすべきだったかを真剣に考えた痕跡は見えませんでした。

でも結局「罰」は効くから、社会を変えるには大切なのかもしれませんね。少なくとも会見を見て「こっわ〜。まじで気をつけよw」と思った同業他社さんはいるんだろうなと思います。でも私は子育てによって罰することが反省につながるわけではない、と思うようになりましたけどね。実際はどうなんでしょうか。

悪い人を正しい人が責める、みたいな構図と、それを私達が見せられることについて、これは本当に社会にとっていいことなのか?と疑問でした。
責める側と責められる側が、一緒に考えていくような会見はできないんでしょうか。などと、記者さんたちが聞いたら怒られそうなことも考えたりしました。まぁでもどうせ反省しない属性の人たちには、わかりやすく「罰」がある方が、即効く抑止力になるからいいのかな。これはこれで正解なのかもしれない気がしてきました。

最後にもうひとつ、今後についての話になるたびやたら「女性」という言葉が出ていたことは結構気になりました。これは女性に限らず人権の話で、考えるべきは女性の扱い方対策ではないと思います。

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