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コンプラを守っても面白いものは作れるし、人の容姿を笑わなくたって人生は楽しい
こんなツイートを見かけた。
容姿で笑えなくなった今が窮屈だ、って意見をまた見たが、俺たちの窮屈さなんてどうだっていいの。子供らの世代が学校や人間関係のなかで、外見で笑うのは何も面白くないって常識になることが大事なんだよ。正直昔、容姿で他人を面白がったことある。近年の風潮によって今、恥じることができる
— フリート横田 (@fleetyokota) June 19, 2021
本っっ当によく見かける「今はコンプラ厳しいから◯◯だ」という言葉。
テレビで芸能人が「厳しい時代だから」などと言っているのを見ると、残念な気持ちになる。好きな芸能人ならなおさら、あなたもそう考えるか、と。
あまりにも共感したので、引用ツイートをした。
本当にそう。最近はコンプラ厳しくてテレビが面白くないとたまに聞くけど、誰かを貶すことでしか笑えない自分をどうにかした方が良いし、未来の子どもが容姿を貶す番組を見た時に「何これ笑えないんだけど」って言ってくれた方が嬉しいね。 https://t.co/oKbyR67iqc
— 三好優実 | 文筆業 (@MinoruOffice) June 20, 2021
とても言いたいことなのでここにも書くが、誰かを貶すことでしか笑えないというのはとても乏しいことだと思うし、未来の子どもが容姿を貶す番組を見た時に「何これ笑えないんだけど」って、誰の目も気にせず言ってくれる世の中になってほしい。
このツイートで思い出した話があったので、それもついでにツイートした。
脚本家の坂元裕二さんも、カルテット作ったとき「最近はコンプラとか苦情が多くて面白いもの作れない」って言う人たちに向けて、コンプラちゃんとやっても面白いものを作れると投げかけたかったと言ってた。私も外見で笑わない世界を難しくなくしていきたいぞと勇気もらった。
— 三好優実 | 文筆業 (@MinoruOffice) June 20, 2021
Twitterは短いので要約させていただいたけれど、私は坂元裕二さんのこのインタビュー記事がとても好きで、何度も読み返している。
ここにそのくだり(インタビュアーから「食卓のシーンで、男性ふたりが料理をつくるも印象的でした」と言われた時に坂元さんが答えた言葉)を引用しておきたい。
それも含めて「カルテット」で意識していたことがありました。ベテランの芸能人の方たちが、「最近はコンプライアンスとか苦情が多くて、面白いものがつくれない」ってよくおっしゃるじゃないですか。「女性をブスって言ってもいいじゃないか。セクハラもコミュニケーションだ。差別も言論の自由だ」っていうのを、僕は疑問に思ってたから、それを全部クリアしても面白いものがつくれると思いますけどね、ということをやってみたかったんですね。
すべての人格に配慮して、旧来の土壌を廃した上で、面白いものをつくって見せたいって。だから、料理を女性がつくるという固定概念を外したのも、全部意図しています。「ポリコレでテレビがつまんなくなったんじゃないよ」ってことは言ってみたかったし、むしろそれを守ったことで新しい場所に行けるという気がしたから、「できるんじゃない?」って思いましたね。それで世の中が変わるとは思わないけど、ほっとしてくれる人がいたら嬉しいですね。
(本:脚本家 坂元裕二より)
元々大ファンだったのだが、これを読んで心底大好きになった。そしてなにより、カルテットが証明してくれた。
コンプラを守っても面白いものは作れるし、人の容姿を笑わなくたって人生は楽しいということを。
私は、沈黙をやめることにした
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実は私は最近まで、こういった問題に提言することを控えるようにしていた。単純に怖かったからだ。
そういう話を積極的にしようとすると、「あぁ、うるさいタイプの人ね」ってリアクションが返ってくるし、「あの人は”そっち系”だから気をつけて」と小声で誰かのことを言う輪の中に入っていたこともある。何より年数かけてその手の話に無感情でいられるようになったのだから、わざわざ反応して傷つきたくなかった。
正直、女を生きていると、差別的な言葉やセクハラには散々傷つけられる。そういう言葉にひとつひとつ反応していたら壊れてしまうから、幼少期から少しずつ心を閉じる努力をしてしまう。無意識に。
そういった言葉が発せられるのは男からばかりではない。女からも同じくらい多い。
過去に、既婚女性は夜にお酒を飲むべきではないのか というブログにも書いたが、私は祖母から言われた「お母さんは掃除ができないから前のお父さんに振られたんだよ」という言葉を長い間引きずっていた。
私の前の父はギャンブラーだった。同じ時間を使ってギャンブルをしていた人と、下手だけど掃除を頑張った人がいて、咎められるのは掃除の下手さだったことにショックだったのだ。
今は自分も既婚者なので、夫婦が離婚に至る原因の本当のところなんて、祖母も含めて他人には分からないと思うことができる。だけどその時は「たった掃除くらいで」と思ってしまったのだった。
だけどそういう話をするたび母は「自分が悪い」と頑なに言う。きっと人から責められ、自分でも責めてきたのだろう。悲しい。女手ひとつで朝晩働いて子ども2人を育ててもなお、自分自身を責めてしまう「女らしさ」の呪いが私は憎い。
たったひとりで私達を育ててくれた人を、家事ができないくらいで責めないで欲しい。
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話を戻す。こういった問題に、少しずつ声を発するようになったのは最近のことで、あるきっかけがあった。
独立研究科でありパブリックスピーカーの山口周さん著書「ビジネスの未来」の一文を読んだことだ。
数多くの国際機関や企業と社会変革プロジェクトで協働した社会システムデザイナーのデイヴィット・ストローは、何か複雑な問題を解決しようとするとき、まず必要なのは「自分自身が、解決しようとしている問題を引き起こすシステムの一部なのだ」ということに気付くことだと指摘しています。
衝撃を受けた。その通りだと思ったし、被害者みたいな顔をして生きてきた自分の当事者意識のなさにがっかりもした。
私は衝動にかられ、自分が問題だと思っていることを書き出した。そして自分がシステムの一部としてしてしまっていることを、恐る恐る書いてみた。
すると、そのほとんどが「沈黙」「我慢して受け入れてしまうこと」だったのだ。
黙ることで自分を守っていたつもりが、黙ることでシステムに加担していたのだ。ショックだった。
昔の自分のために、今の子ども達のために、私はシステムの一部にならない表明をしなくてはいけない。
いつだって大きな問題について考える時浮かぶのは「私一人が声を上げたところで何も変わらない」という考えなのだけれど、先程引用した言葉の文脈の中に、こんな言葉もあった。
歴史というのは大きな意思決定よりも、どこかで毎日行われているようなちょっとした行為や発言がきっかけになって大きく流れを変える。
要はバタフライエフェクトなのだが、黙るのはやめようとシンプルに思った。
最後に、心がけたいこと
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ここまで書いたことを踏まえた上で、とても大事にしたい考えがある。それは私が女であり当事者だから敏感でいられるということだ。
当事者ではない人が、想像力を持って言葉を選び続けるのはとても難しい。だから「コンプラうるせぇ」って言ってる人には反発するけど、悪気なく言っちゃった人に対して牙をむいてしまわないようにしたい。誰だって、なったことがない気持ちなんて分からないし、人が変わると決めることや、実際に変わることはそんなに簡単じゃない。
私も最近、治そうと頑張っている短所があるけれどなかなか苦戦している。変わるのは難しいのだ。だけど変えていきたい。せめて半径50メートルくらいを、私たちの子ども世代が大人になるくらいまでには。