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脱・幸せになりたいキャラ

以前、友人に「子どもを産むメリットってなに?」と聞いたことがある。

友人はこう答えた。「ない」(笑)。
さらに「もし子どもを考えてるなら、そんなこと考えちゃだめだよ!」と諭された。

この返しはわたしにとってとてもスッキリするもので、シンプルにわたしは子どもを欲しがってるな、メリットとかじゃないな、欲しいならがんばろう、と思えたのだった。

スッキリした一方で「考えたら色々ありそうなのに、ないって即決するのうけるな」とも思った。だけど今なら彼女の気持ちがわかる。子育てはうれしいことや幸せを感じる瞬間はいくらでもあるが、メリットと言えるようなことははっきり言ってないのだ。お金も時間も精神も削られるばかりである。

だけど、それこそが幸せなのだと今は思う。メリットがないのに大切だということは、それは本当に大切だということだ。メリットがないのに色々捧げられるということは、損得を超越しているということだ。そして損得抜きに大切な存在が成長していく時間は、なににも代えがたいほど愛しい。

「幸せ」とは

メリットはないが、子どもの存在はわたしに大きな影響を与えた。そのひとつが、幸せについて本気で考えるようになったことだ。息子に「幸せになって欲しい」と願いながら、幸せがどんな状態なのか、実はよくわかっていないなと思ったのだ。

「幸せ」ってなんだろう、をごちゃごちゃ考えた結果、息子の幸せは息子にしか分からないのだから、わたしが考えても仕方ないという結論にたどり着いた。これから長い人生で、息子なりの幸せを本人に追求してもらうしかないな。と結論づけた後、はたと思う。「じゃあママの幸せは何なの?」と聞かれたらなんて答えたらいいだろう。そもそもわたしの幸せって何だっけ?

わたしにとっての「幸せ」

実のところ、その問いについて考えはじめて2年経つが、答えは出ていない。2年で得たのは「自分がこれまでいかに自分自身の幸せに向き合ってこなかったか」という気付きである。

思えばこれまで「幸せになりたーいw」と口にしながらも、本当に幸せになろうとしていなかった。わたしが幸せのための行動だと思っていた多くは「傷つかない」ための行動だったなと思う。話し合いから逃げるとか、喧嘩を避けるとか、早めに諦めるとか。

だけど今は分かる。「幸せになること」と「傷つかないこと」は両立しない。正反対と言ってもいい気がする。

「幸せ」は追いかけるもの

話が逸れるが、年末年始に「あいの里」にはまった。あいの里とは、35歳以上限定の恋愛リアリティー番組だ。

恋愛リアリティー番組と言っても、年齢が年齢なのでただの恋愛ではない。人生最後の恋愛を探しに来た人がいれば、LOVEじゃなくて介護パートナーを見つけたい人もいて、すぐに子どもが欲しい人もいれば、すでに成人した子どもと暮らす人もいる。

ときめきとか、好みとか、話が合うとか、だけじゃ成立しない大人の恋は、時にとても苦しい話し合いが必要になる。一般的に「重い」とされることを伝えることもあれば、お互いに惹かれ合っているのに自分が相手の切実な希望を叶えられないと知り、決断できないこともある。「この歳でこんなに怖い思いをするなんて」と言いながら、そこそこの大人が震えながら告白する姿は、寿命が縮むんじゃないかと思うほどハラハラする。

自分の気持ちは言葉にしなきゃ伝わらないし、傷つく覚悟がないと欲しいものは手に入らない。こんな言葉は散々見聞きしてきたはずなのに、本当の意味で理解していなかったなと思う。

ふと、ああ、わたしはこれまで「幸せになりたいキャラ」だったんだなと思った。幸せになりたいと言っているだけの、キャラクター。本当の自分の幸せを見つめる覚悟はなくて、それよりも傷つかないことの方が大切で、着ぐるみの中にずっと閉じこもっていたのだなと。

だけどわたしは息子に幸せになってもらいたい、という切実な願いができたことで、やっと着ぐるみを脱ぐ覚悟ができたらしい。今わたしは37歳にしてやっと、幸せになりたい。

長い間着ぐるみを着込んでいたから、幸せの追いかけ方はとても不器用かもしれない。だけど「あいの里」の35歳を過ぎた恋する大人たちのように、すこしずつ避けてきたものに声をかけたり、避けてきた問いを投げかけてみているところだ。恐る恐る、色んな自分と出会い直すことからはじめている。

勇気を出していると、過去に勇気を出してくれた人への感謝が湧いて、すこし幸せな気持ちになった。なるほど、こうやって付属的に表れる幸せもあるんだな。ふむふむ。幸せになりたい2年生のわたしは、まだまだ研究段階である。

息子が大きくなるまでには、小さくても「わたしだけの幸せ」と呼べるものを持てているといいなと思う。まずは見つけるところからだ。

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