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愛は技術であり、人を愛する能力は磨ける
「子育てはスキルだ」と断言する友人がいる。
彼女は私が知る中でもとびきり仕事が好きで、できる。
だから子を産むと聞いたときは正直「母親になる姿が全然想像できない!」と思った。なんたってSNSのプロフィールに「特技は仕事。趣味も仕事」と書くような女だ。正直、子育てによって仕事時間が削られることに病んでしまうのでは、と思っていた。
ところがどっこい、全然そんな心配はいらなかった。むしろ逆。障壁が増えると燃えるのか、出産後はさらにパワーアップしたのだ。
今や冒頭のセリフを口癖に、根気よく子を観察して子育ても仕事も華麗にタスク分類&仕組み化している。かけるべき時間はかけつつ上手に手間を抜き、決して「母親失格だ」なんて落ち込まない(私はこれがとても大切だと思う)姿はさすがだ。
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彼女の姿を見て思ったことがある。「愛」と捉えると苦しいことが「技術」と捉え直すことで冷静になれたり、解放される呪縛があるのではないかということだ。
そんなことをぼんやりと思っていたから、惹かれたのかもしれない。「愛は技術である」を提唱する、社会心理学者・哲学者エーリッヒ・フロムの本『愛するということ』を読んだ。
本書はなんと、120年ものあいだ読み継がれてきた世界的ベストセラーであり、本の帯には「愛することを生まれながらにできる人なんていない」と書かれてある。「愛される技術」ではなくて「愛する技術」について説く本なのだ。
フロムいわく「愛することは技術であり、知力と努力が必要だ」という。考察される「愛」の種類は多岐にわたり、恋人同士の愛、母性愛、友愛、神への愛までさまざまだ。
そんななか「母性愛」についてフロムは
母性愛は子どもの生命と要求にたいする無条件の肯定だ。
と言い、こう説く。
子どもの生命の肯定には二つの側面がある。一つは子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な、気遣いと責任である。もう一つの側面は、たんなる保護の枠内にとどまらない。それは、生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きていることはすばらしい」「子どもであることはすばらしい」「この地上に生を受けたことはすばらしい」という感覚を子どもに与えるような態度である。
で、この「生きていることはすばらしい」という感覚を与えるために必要なものが私にとって意外であり、めちゃくちゃ腑に落ちるものだった。
それは"たんなる「よい母」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない"。
ああそうか、私は自分の母親に「幸せなお母さん」になって欲しかったんだなと急に腹落ちした。
というのも私は長らく母子家庭で育ってきて、朝から晩まで働き詰めだった母のことを尊敬していたけれど、わたしがいなければ母はこんな目に遭わないのにと申し訳ない気持ちも大きかった。(それが原因かはわからないけど、私は幼少期、人生が楽しいだとか、将来が楽しみだと思った記憶がない。とにかく早く大人になって働かなきゃと思っていた)
ふと、ブレイディみかこさんのエッセイ『「愛は無償」と値切るな』に書かれていた一文を思い出した。
「子どものことを考えるなら」「子どもを愛しているのなら」とわたしたちはいつも脅迫される。(中略)だが本来、愛とセットにされるべき言葉は、犠牲ではなく幸福だろう。
本当に子どものことや国の未来を考えるなら、愛を値切ってはいけないのだ。
母から子への「愛」は無条件に与えられるべきだという圧は根強いし、それに呼応するように母親は「幸福な人間であること」を手放してしまいがちだ。だけどきっと、それが本当に「愛」であるなら、母親が幸福であることを手放してはいけないんだ、きっと。
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もうひとつ、教育と洗脳の違いについてもかなり響いてしまったので紹介したい。
教育とは、子どもがその可能性を実現していくのを助けることである。教育の反対が洗脳である。これは、子どもの潜在的可能性の成長にたいする信念の欠如と、「大人が望ましいと思うことを子どもに吹きこみ、望ましくないと思うことを禁止すれば、子どもは正しく成長するだろう」という思い込みにもとづいている。
他人を「信じる」ことを突きつめていけば、人類を「信じる」ということになる。
人類を信じること。
私は「愛の習得」において、ここにこそ大きな答えが潜んでいる気がした。子どもだけじゃなくて人間関係全般、自分も含め「人類を信じる」。きっと「子どもに対してだけよい親になる」というのは不可能で、愛を習得するためには、すべての人間に対して変わっていかなければいけないのだと思った。
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さらにフロムは「自分を信じている者だけが、他人に対して誠実になれる」という。なぜか。「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れている」から。
人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛せない。
愛とは信念の行為。なんだかわかる気がするし、まだ自分はちゃんとわかっていない気もする。
そしてやっぱりそういう話になったとき、先日読了した小説『あちらにいる鬼』が頭をよぎる。
結局、「子育てはスキルだ」と言った友人には長い年月をかけて得た「愛するスキル」が備わっていたのだと思ったし、少なくとも培うことに多くの時間をかけたのだと思う。そうすることの価値を見極めていたのだろう。
本は、肝心の「愛という技術を習得するには、こうすべし!」というハッキリとした答えはないままに終わったけれど、だけどわかりたい、わかる気がする、折に触れて考えていきたい、など新しい意欲がいくつも自分の中に芽生えた読書だった。
「愛は技術だ」という言葉の印象は私の中で微妙に変化したし、それが思ったよりも複雑で、習得に根気がいることがわかった。だけど今は時間をかけて、新しく捉えなおした方の「愛」を習得していきたいと思っている。