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この店がなかったら今の自分はいない、と思う店がなくなるかもしれない
「この店がなかったら、わたしは沖縄に移住していなかったかもしれない」
そう思う店が1軒ある。
移住したばかりのころ、その店はわたしにとって唯一の「居場所」だった。移住して5年ほどの歳月が経ち、顔を出す機会も減ってしまったのだが、店のオーナーとは細く長く、関わり続けていた。
そして最近「新型コロナウイルスの影響を受けた企業」というテーマにおいて、取材という形でオンライン越しに久しぶりに対面した。
画面の向こうに移った彼は、いつも若々しく、たまに説教をかましてくる元気な彼とは少し違っていて、白髪が増え、普段見せないような弱弱しい笑い方で微笑んでいた。
そして取材を進める中、言った。
「店を閉めようかと思ってた」
わたしはショックだった。と、ともに、大切な場所がずっとあると思い込み、遠のいていた自分が情けないと思った。なくなって欲しくない縁は、普段から大事にしなくちゃいけないと人生の節目節目で気付いてきたはずなのに。
結局借り入れを駆使し、お店を存続することに決めたそうなのだけれど、継続=守ることができた、という話ではないということはすぐ分かった。ただ維持する決断をしただけなのだ。いばらの道かもしれない。
今回の新型コロナウイルス感染拡大で、お店を閉める決断をした人も少なからずいる。つらい決断ではあるが、閉めない決断をすることでもっときつくなる可能性もある。後々になって「あの決断は、閉めるタイミングを先延ばしにしただけだった」と思う日が、もしかしたら来るかもしれない。
先日読んだジム・ロジャーズ 大予測―激変する世界の見方に、こんな文があった。
日本語で「危機」という漢字が示す通り、「危険」が生じた後には「機会」が生まれる。
わたしたち消費者は、新型コロナウイルスという「危険」によって、大切なお店がなくなるかもしれないことに、否が応でも気付くことになった。永遠ではない“存続”と、無限ではない“資金”。それらに気付く「機会」が与えられたのだ。
ならばわたしたち消費者にできることは、たったひとつしかない。存続して欲しいお店に、できる限り足を運び、きれいにお金を使い、人に勧め、いつもありがとうと感謝を伝えること。...あ、ひとつじゃなかった。まぁ、まとめると「大切なものはちゃんと大切にする」というひとつだ。
「いつまでも、あると思うな親と金」という言葉があるが、なんでもそうなのだ。親も、彼氏も、友達も、店も、商品も、野菜や果物も、家も、家族も。大切なもの、好きなものすべてに、なくなる可能性がある。
「Afterコロナ」という言葉が共存の覚悟みたいであまり好きではないのだけれど、あえて使う。Afterコロナの時代では、消費者の「選択力」が試されるとわたしは思う。
なんでもいい買い物や店選びを卒業し、きちんと選びたい。自分のお金を消費ではなくて誰かを、なにかを守ることに使いたい。微々たるものだとしても、そうしていたい。それは偽善とかではなく、自分のために。