鈴木裕子「まんぷくモンゴル!公邸料理人、大草原で肉を食う」を読んで
なぜ読みたいと思ったか。
この本を読もうと思ったのは、note に流れてきた「ざっくりモンゴル!草原の秘密」という一連の記事の中で、「ボートック」という料理を作って食べるレポートに仰天したからだった。
ボートックとは、ざっくりと言えば、羊や山羊一頭を料理するのに、鍋も水も、直接には火も使わない料理。
山羊や羊の首を落とし、その穴から体の中身を全部出したのち、できた皮袋に切り分けた肉と、よく焼けたゴロ石をいい按配に詰める。
数時間後、焼け石の熱で蒸し焼きになった肉と、滲み出たスープを首の穴から取り出して食べる…といった料理だ。
料理人の手さばき、立ち昇る匂い、出来上がった絶品ホクホク肉料理の味わい…
書き手の鈴木裕子さんは、並々ならぬ食いしん坊とお見受けした。のみならず、羊一頭を余すところなく生かし切る遊牧民の暮らしに、深い理解と共感を寄せる方なのだなと感じた。
そこで、この本。
著者の鈴木裕子さんは、日本大使館付きの公邸料理人としてウランバートルに派遣される。料理に対する熱意と、モンゴルの人々の生活と文化に強い関心を持ち、首都にとどまらず草原のあちこちに、遊牧民の暮らしを訪ねて行く。
遊牧民の生活は羊(および自力で移動できる家畜)なしには成り立たない。モンゴルの草原は極端に乾燥しており、農耕はほぼ不可能。わずかに地表を覆う草を食べる羊や山羊が、生活を支える全てだ。
彼らが羊を食用にする際の描写が素晴らしかった。それは「屠殺」と呼ぶような行為ではなかった。文字どおり「命をいただく」という行為。彼らは羊をまったく苦しめない。そして、血の一滴も無駄にはしない。すべて料理し、自らの命をつなぐ。それが「食べる」ということ。
食べる以外にも、羊は遊牧民の生活と切っても切れない動物だ。その糞は草原に落ちるとあっという間にカラカラに乾燥してしまうので、燃料となる。樹木のない草原では、糞は貴重な熱源だ。
彼らの移動式住居「ゲル」の外壁は、羊毛から作られるフェルトで覆われる。衣類はもちろん靴や手袋など、羊は人命に直結する重要な素材。冬場は−30℃にもなる過酷な気候の中で、羊なしには、人は生きていけないだろう。
遊牧民の生活を支えるもう一つの食材「乳」。
私たちは、スーパーで売られているパック詰めの牛乳しか知らない。しかしそれは、きちんと処理された製品としての「牛乳」であって、生き物の体から出てきたばかりの温かい液体とは別のものだ。
この本を読むと、モンゴルの人々がいかに「乳」を加工し食用にしているか、そのバリエーションの豊かさに驚く。
「ウルム」という、乳を温めたとき表面に浮く膜を、ひたすら分厚く生湯葉の固まりのように作ったもの。著者の描写があまりに美味しそうで、今すぐ食べたい!と思ったほどだ。
草原では「夏は白い食べ物、冬は赤い食べ物」を食べるという。白は乳、赤は肉を指す。乳もその原料は馬、山羊、ラクダ等さまざまであり、それぞれに適した用途と加工の方法がある。乳由来の加工品として、私はヨーグルトとチーズくらいしか思い浮かばないけれど、脂肪の扱い方、加熱の仕方、かき混ぜ方、乾燥方法などにより、無数のバリエーションが生まれるようだ。
そこには、私たちが米と豆を原料に、(糀を含めて)無数の食品を生み出しているのと同じような広がりがあった。それはまさに食文化と呼ぶべきものであり、人類が、置かれた環境にいかに適合して生きてきたかを示すものだと思う。
「食べることは生きること」というメッセージを受け取った。
近年、和食が世界文化遺産に登録されたこともあり、Japan as No.1みたいな、とかく自国の文化の優位性を主張したがる人もいる。
しかし、日本が特別だとか優秀だとか思うのは、他をよく知らないために落ち入る誤謬ではないか。私は、置かれた場所で、その環境に適合しながら生きてきた人類そのものが素晴らしいと思う。
そして、それなのに、カシミヤが高く売れるために山羊の頭数が増え、草原の砂漠化が問題になる(山羊は羊と違って、植物の地上部だけでなく、根まで掘って食べるため)など、グローバル化した経済主義が、この数千年にわたる人類の叡智を台無しにしようとしているのは、本当に愚かしいと思う。
すぐ隣の大陸の草原で、私たちと同じモンゴロイドの人たちが、私たちと全く違うやり方で日々を送っている。それを垣間見れただけでも、なんだかワクワクしてくる。
草原の人たちの暮らしが、どうか今までどおりに続きますように。そして、私もぜひ一度、モンゴルに行ってみたい。