自分のために虫を描く
前に「このあいだのこと」でも触れましたが、自分の空っぽさっていうのが昔から嫌でした。"空っぽなら外側を飾ればいい"みたいな思いがあってヴィジュアル系バンドが好きだったし、自分も一時期そういうバンドをやってました。
空っぽなのが嫌なのでいろんなことを勉強したし、いろんな人にも会ってみた。だけど、その結果、そういったことが何かの役に立ったかというと、少なくともお金を得る手段にはならなかった。
"大事なのはお金じゃないでしょ"という価値観もあるとは思います。でも、そもそも生活できなかったら大事も何もない。生きていくのにお金はいります。だから、ある地点までは”お金のため”というにはシンプルに"生きるため"だと思う。個人の成長とか、利他的精神とか、こころの豊かさとか、そういうのは今日の飯を確保したあとで考えればいい。
そんな思いが今はすごく強くあります。
それで、ここからは真逆のことを言うようですが、一方で"誰のためでもない、自分のためかもわからない、個人的な作業"みたいなことをしたいなと思うようになりました。
生きた証じゃないけど、何かを作って、この世に残しておきたいなと。
前半に書いたように、あの日まで"お金に繋がることをなるべくしなきゃ"と思っていたんですけど。つまり意味のあることをしなきゃということですね。
でも、あの日以来、何かを残しておきたいと漠然と思うようになりました。
三年連続で美術展に参加させてもらったことで、僕は絵を描くようになったんですが、今年一年は生活のことばかり考えていて、絵を描かなくなっていました。描く意味を感じなくなったと言ってもいいです。
僕は別に絵が上手いわけではないし、僕の絵は人から評価される種類ものではない。一体何のために描いているのかわからなくなっていました。特に楽しくもなかったですし。
でも、あの日以来、何かを残したいと思うようになって、再びを絵を描くようになりました。それは楽しいから描いているわけではありません。ライフワークというか、ただ、コツコツと続けられるものが欲しかった。
絵の良いところは、悪感情を表現しても、言葉で描くよりも意味が固定されないことのような気がします。僕は暗い気分が高まると、ムカデとか蜘蛛とか奇蟲を描きたくなるんですけど、SNSで「死にたい」とかつぶやくよりも奇蟲を描いてたほうがいくらか表現として質が高いというか。そうやって暗いことを考えながら奇蟲を描いていたとしても、ずっと描いていれば作品になるなぁと思ったんです。
それと絵って手で描くものなので、写真を見て描いたとしても、僕が描いた絵にしかなりません。どうやったって、僕の要素が入ってしまう。でもSNSで「死にたい」と書き込むのって、誰が書き込んでも、同じデジタルな「死にたい」でしかないですからね。
それ以上でもそれ以下でもない。ほとんど何の情報もない。
でも絵の場合なら、そこに世界に対する絶望を読み取る人もいれば、社会に対する恨みを読み取る人もいるかもしれない。「寂しい」という絶叫を感じる人もいるかもしれないし、中二病の落書きだと思う人もいるかもしれない。絵の制作は身体性が伴うが故に、そこにはいろんな情緒の色合いがたぶん含まれる。
デジタルな言葉で記された「死にたい」より、いくらか表現としての質が高いとはそういう意味です。
それともう一つ、奇蟲を描いていていいなと思ったのは、ムカデの足とか描いていると、細か過ぎてかなり集中力を使うんですね。感情の昂りって何かに没頭することで収まるということを僕は過去に学んだんですが、まさに悪感情が昂って奇蟲を描き始めると、描くことに没頭していて、ふと気付くと悪感情が収まっているんですね。
僕の場合、悪感情が自傷に向かうことがあるので、あんまり感情に身を任せるわけにはいきません。そういう意味でも、暗い気持ちが沸き起こってきたら奇蟲を描いていくのは良さそうだと思いました。
そうやって自分の暗い気持ちを絵に変換していくっていう作業。趣味ともまた違う気がするし、楽しくもないそういう作業をしていくことの充実感と言いますか、ただ自分のための作業みたいな、そういうことをしています。
できることなら、こういう作業を大切にしてなるべく続けられたらいいなと思います。楽しくも何ともない、誰の役にも立たない、自分のための作業を。
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