生きる意味問う萩原朔太郎の詩と人生
「日本近代詩の父」と称される詩人・萩原朔太郎の詩集、伝記を読みました。
彼の私生活は、常に不幸と絶望の連続で、常に「何のために生きるのか」と問い続ける一生だったと思わずにおれません。
父が、人間の死体を解剖していた
萩原朔太郎は、群馬県で名医と謳われた、医師の長男として、明治19年(1886年)に生まれます。
父の密蔵は、若い頃から熱心に勉強し、東大の医学部を主席で卒業後、医院を開業した努力の人物です。
母・八木ケイと結婚したあとも、医学のことで頭が一杯の父は、医家を継ぐ長男の誕生を心待ちにしていました。
そんな環境の中、生まれた朔太郎は、期待を込めて大事に育てられましたが、ひ弱で、あまり笑わない、泣いてばかりの子どもとして育ちます。
ある寒い日、一人で家の中をあちこちと歩き回り遊んでいた幼い朔太郎は、医務室で、恐ろしい光景を目にしました。
父が、人間の死体を解剖していたのです。
朔太郎が来たのに気づいた父は、彼を死体がよく見える補助台に座らせると、嬉々として、逐一説明をしながら解剖をしてみせます。
手術台の上には心臓、脳、内蔵、その他人間のあらゆる臓器や血が生々しく広がり、部屋の中には妙な匂いが立ち込めていました。
朔太郎にとって、それはあまりに刺激の強い世界でした。
医務室の異臭や、解剖される人体のグロテスクな光景が、頭の中に焼き付いてしまった朔太郎は、その日以来、昼間から布団にもぐりこむようになりました。
夜中には「おばけがいる」と言って泣きべそをかき、日に日に神経質になっていきます。
強烈な経験をしたこの時期を境に、朔太郎の「長く苦しい孤独や憂鬱との戦い」は始まったのです。
何者にもなれない無力感
神経質かつ病弱で、学校を休みがちな朔太郎でしたが、小学校を首席で卒業すると無事に中学に入ります。
その頃の彼は、父親の期待を重荷に感じ、医者にだけはならないと心に固く決めていました。
中学2年の時に従兄・栄次の影響で短歌を知り、その後、マンドリンと出会って以来、朔太郎は、それらの虜となります。
しかし、趣味ばかりに気を取られ、学業に関心がない彼は、中学卒業後、何度も落第や入退学を繰り返すようになりました。
京都大学の受験に失敗し、早稲田大学を目指すも、受験の手続きが遅れて諦めざるを得なくなりました。
この時、朔太郎はすでに27歳。彼は大きな挫折を味わい、何者にもなれないという無力感を抱えるようになります。
当然、待っていたのは父との衝突でした。
初めから文学にも音楽にも無理解だった父は、医者への道を、朔太郎に強く迫ります。
その後、従兄・栄次の説得もあって、なんとか父から許しをもらい、音楽の道に進みますが、やがて、音楽の力では孤独を追い払えないと朔太郎は悟りました。
最後に残されていたのが、詩だったのです。
こころをば、何にたとえん
この頃の作と言われる「こころ」という詩があります。
この詩は、「こころというものを、いったい何に例えるとよいだろう」の問いかけで始まっています。
第1連では、こころを紫陽花に例えています。
紫陽花は、土壌の状態で、同じ株でもピンクやブルー、紫に色を変えるところから、「移り気」「無常」という花言葉を持っています。
鮮やかに咲き誇ったとしても、すぐに色を変えてしまい、夏が来る前に色あせる紫陽花に、こころを見立てた朔太郎。
「明るく華やかな日はあれど、すぐに沈み込んでしまうのが私のこころ。寂しく悲しい思い出ばかりが残っている。移ろいやすく、虚しさが募る」と訴えています。
第2連では、こころを夕闇の噴水に例え、「人からは見えなくても、悲しみが止めどもなくあふれてくる」と述べます。
そして、第3連。人生を「旅」に例え、こころをその「旅の道づれ」といいます。
一緒に並んで歩いているのだけれど、全く何も物を言わない。
「自分のこころに問いかけても、何も答えてくれない」と言います。
底知れぬほど寂しいところが人生。そんな感情が、しみじみと伝わってきます。
月に吠えるは朔太郎
大正2年(1913年)に北原白秋の主宰誌『朱欒(ザンボア)』に詩を投稿したのを皮切りに、朔太郎はこれまでに感じてきた孤独や苦しみを詩の形としていくつも吐き出します。
そしてそれらの詩を1冊分にまとめ、ついにできあがったのが、有名な詩集『月に吠える』です。
『月に吠える』は、口語自由詩を確立した詩集として知られています。
五七調や七五調のリズムに縛られることなく、話かけるような言葉で綴られた詩は、当時の人々の心にどれだけ新鮮に響いたことでしょう。
朔太郎はこの詩集で一躍有名になりましたが、詩集の序文には、「詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである」とあります。
詩集からは、それまでに味わった挫折や孤独が伝わってくるようです。
例えば、この詩集の「見しらぬ犬」という詩を紹介しましょう。
朔太郎は、序文に、「月に吠える、それは正しく君の悲しい心である」「月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである」と記しています。
寂しい月に向かって遠吠えする不幸せな犬は、誰にも理解してもらえない、人生の旅の道連れである、私のこころ。
何のために生きるのか、どこに向かって行けばよいのか、方角立たず、放浪する人生の孤独が、読む人の胸に、ひしひしと迫ってくるようです。
憂鬱・倦怠を綴った『青猫』
大正12年(1923年)に発刊された詩集が『青猫』です。
『月に吠える』は大好評でしたが、朔太郎は依然悩んでいました。
後年の回想で朔太郎は「しかし青猫を書いた頃は、私の生活のいちばん陰鬱な梅雨時だった」と述べています。
念願だった詩集を刊行し、自分の苦しみを吐き出すことに成功したはずなのにどうしてでしょう。
朔太郎にとって『月に吠える』は思い通りの仕上がりでした。
喜んだ彼は、詩集を父に見せようと考えます。
その頃の朔太郎は、父のいる実家で徒食していました。
30歳を超えた男が、実家で、現代でいう「ニート生活」をしているのは、考えただけでも憂鬱です。
早く詩人として父に認められて、家を出ていきたいと考えるのも当然でしょう。
休診日の夕方、父がいつもの縁側でくつろいでいる頃を狙って、朔太郎はついに突撃しますが、結果は最悪でした。
激怒の末、父は詩集を八つ裂きにし、ついには燃やしてしまいます。
こんなことが起きたあともなお、朔太郎は、父の実家に身を寄せねばならなかったのです。
人生は、どうにもならない苦悩と倦怠に忍び泣きながら生きること。
そんな息苦しい生活の叫びとなってできたのが『青猫』です。
「みじめな街燈」という詩があります。
なんともいえない絶望があります。
みじめに小さくなって泣いている朔太郎の姿が目に浮かんでくるようです。
父親の家で鬱屈していた彼は、ついに大正14年(1923年)、妻子を伴って上京しますが、妻は一青年に走り、結婚生活は10年で破局。
昭和17年(1942年)、風邪をこじらせた彼は、肺炎のため、55年の人生を終えました。
憂鬱や孤独、疎外感、絶望は誰でもが味わいうる普遍的な感情だと思います。
だからこそ、その感情を繊細に描き出した朔太郎の詩は、時代を超えて心に響くのではないでしょうか。