第3回「夢二が台湾に行った理由」
1931年(昭和6)5月以来、夢二はハワイ、アメリカ西海岸、欧州各地と旅を続けましたが、特に後半の欧州では無銭旅行に近い状態となり、パリの路上で倒れたりするなど苦しい経験をしました。さらに、最後の滞在地ドイツでは、ヒトラーの率いるナチスの隆盛により、領事館員の協力で始めた画塾イッテン・シューレでの日本画の教授もままならなくなり、ついに1933年(昭和8)晩夏に帰国を決断し、ナポリ経由で9月18日に神戸港にたどり着きました。迎えた有島生馬は夢二の衰弱しきった様相に驚いたそうです。
帰宅後、夢二は眠ったり原稿を書いたりする生活をしていましたが、アメリカに出向する前に宣言した、手による産業振興のための「榛名山美術研究所」の設立計画に関する意識は大幅に変わったようで、「若草(11月号)」の「島へ帰り着く」に次のように書いています。
「榛名山産業美術学校」の件だけは、いささか世間知らずの技術家気質のよさまずさを共に示している。もっとも、私の「手による産業」の提唱が全く新しい創意でないにしても、その実践を科学的に学びたいという熱意がその頃の私にはあった。(中略)また「何」を「如何」になすべきかに就いての私の旅に、多少の発見と発明がないではなかったが、三年の月日の間に私の心持ちも変わってくるし、日本の状態も変わってしまった。
と美術学校に対する考え方に変化が見える一方、絵画に対する意見は全く変わっていないようで、
技術家の立場から言えば、今も世界は単なる一枚の芸術的絵画など要求してはいない。人間の合理的近代生活に必要な建築或いは服装を込めた総合芸術の一細胞としてのみ絵画は存在するにすぎない。(中略)日本の如く、幾万人の画家が、貯金帳を持って清貧に安んじながら、およそ人間生活に縁の遠いこうとうむけいの作品を陳列し、市民は拝観料を払ったり、払わなかったりしてのたりのたりと上野の森に出向くという、こういう優美な国民は、ちょっと世界無比であろう。
と、ずいぶん手厳しく言い切っています。夢二は、人間生活に役立つ美術のあり方に徹底的にこだわっています。
そして新たな動きがでてきました。
夢二が寝たり起きたりして日々をすごしているところへ、河瀬蘇北(本名龍雄)からある提案があったのです。蘇北は夢二が外遊に出る前に本の装幀をした人物で、全く知らない人物ではありませんでした。彼は「東方文化協会」の理事長を務めるアジア政策の研究家で、同協会の台湾支部の新設に伴う祝賀会として講演会と展覧会の開催を夢二に提案してきたのです。
夢二は長旅の疲労と長引く体調不良のため迷いましたが、外遊中に星島儀兵衛に借りた500円の返済期限も迫っていたので、渡航を決心しました。
*参考:500円≒令和元年の318,000円(昭和の1円の価値は令和元年だと636円(三菱UFJ信託銀行))
つまり、夢二が逆境を押して台湾渡航を決めたのは、星島ばかりでなく相当額の借金をしていたと思われ、これが直接的原因だったといわれています。彼は、翌年結核とわかり信州の富士見高原療養所に入院しますが、その時も、外遊時や有島生馬に入院の際に借りた借金のことなどを日記に書くほど気にしています。安易に借金はするが義理堅い、というのが夢二の心情として見えてきます。
また、「気候が温暖で病気療養にはいいんじゃないの」と夢二の台湾行きを勧めた人もいるようです。当時の台湾は、台湾統治が始まってから既に38年も経っており、特に台北などはインフラもかなり整ってきていたことから、療養地としての台湾というのも内地の日本人の感覚としてはありえたのかもしれません。
私事ですが、私の亡き母は大正3年生まれでしたが、日本郵船と関係のある仕事をしていたせいか、「戦前は台湾からよくバナナが送られてきた」と言っていました。
実際のところ、台湾統治が始まった頃は「日本と同じような環境にする」という良くも悪くもとれるような強硬政策により(明治31年の児玉・後藤体制時は国家予算の1/4強を台湾のインフラ予算に計上したといわれる)、衛生状態、交通、福利厚生から教育に至るまで積極的な取り組みを行ってきました。台湾へ移民した日本人の生活は、1985年(明治28)の統治開始当初はかなり大変だったようですが、特に夢二の行った頃の台北は、東京より下水道設備が良いと言われる程の環境で、「気候が温暖で病気療養にはいいんじゃないの」といった助言があったのも、また夢二がそれを鵜呑みにしたのも頷けます。
米欧の旅で疲弊した夢二が台湾に行くことを決めたのは、このようなことだと推測されます。夢二としては、不況のため米欧では絵が売れなかったが、台湾には日本人が大勢いて外遊前のように絵が売れるだろうという胸算用があったのではないでしょうか。(つづく)
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