第5回「夢二、基隆港に着く」

昭和8年(1933)10月23日、夢二と河瀬蘇北を乗せた「大和丸」は横浜港を出港しました。

この出港日に関しては、10月24日という説が一般的でしたが、夢二研究会会員高橋邦明氏の日本郵船等への調査で、1日前に出港するスケジュールとなっていることが判明。(「臺灣航路案内」(1933年(昭和8))によれば、「大和丸」の神戸港出港日は月曜日であり、10月24日は火曜日となるため、出校日は23日と思われます。なお、到着日は定説どおり10月26日です。(写真参照)
また、この資料によると、基隆港の税関に近いバースは改築工事中だったようで、同船は湾口に近くに設置したバースに停泊したと思われます。線路が湾口の方まで伸びていていて、夢二たちもここから汽車に乗って台北に向かった可能性があります。
当時の基隆港の状況ですが、これは、日本統治下の台湾の様子(1931年当時)を克明に描いた台湾映画「KANO1931 海の向こうの甲子園」(永瀬正敏主演、馬志翔監督)の中で、大型船が着港したバースを蒸気機関車が走り出すシーンがあり、当時の様子を実感することができます。

さて、基隆港では、台湾の新聞記者たちが夢二を待ち構えていたようで、早速取材が行われました。注目されたのは、渡航目的であった展覧会よりも、ひと月前の欧州からの帰国理由についてでした。ヒットラーに追い出されて帰国したのではないかという問い対し、夢二は、自分がナチスに追われたことは否定し、技術、芸術家のユダヤ人が人種的迫害を受けたためにドイツの技術に見込がなくなったことを帰国理由としてあげ、これが翌日の『台湾日日新報』に「談話」として次のように掲載されています。

ドイツの一美術学校教授たること半年、ナチスから追はれて帰朝したと云はるる竹久夢二画伯のナチス説

「私はナチスから追はれたと云ふことはありません。例のユダヤ人の排斥で技術、芸術家のユダヤ人が人種的迫害を受けた結果、ドイツの技術も見込がなくなったので帰つてきました。日本人排斥と云ふことなどありませんが、事実をゆがめて通信をやつたと云ふのでこうした目にあった例があるそうです。
ユダヤ人には技術、芸術家など頭のよいのが沢山おりますが、これらは漸次迫害されて国外退去をしてゐますけれど、例外として金融資本家のユダヤ人はなんら排斥を受けていないのは資本主義時代の一つの矛盾を示している様です。西洋人の複雑した感情はどうも私共にはよくわかりません。ナチスの芸術は今後だんだん希薄になつて行きますが、美術は彼等の生活に大した影響はなくとも、音楽が聞けなくなると云ふことは一番の苦しみだらうと思ひます。」(『台湾日日新報』1933年10月27日)
 
実際には、夢二は1933年(昭和8)2月頃からドイツの画塾「イッテン・シューレ」で日本語を教えていましたが、その直前にヒトラーが首相となり、生徒はユダヤ人が多かったためその数が減少。ついに彼は職を辞すことにしましたが、その翌日、画塾はナチスの攻撃を受けて壊滅してしまいました。

なお、授業に当たって、夢二は日本画に関するテキスト「日本画についての概念」を書いており、領事館職員の協力で翻訳され授業が行われたようです。これは現在日本にあり、夢二の芸術論として貴重な資料となっています。(2019年に金沢湯涌夢二館でこれに関する特別展が開催されました。(本稿末尾写真参照))

残された夢二の日記を見ると、ひしひしとナチスの横暴の度が増してくることが書かれていますが、夢二は、取材ではこれについては触れなかったようで何も書かれていません。

こうして記者取材を終え、夢二と蘇北は台北に向かいます。いよいよ謎多き夢二の台湾旅行の始まりです。(つづく)

「大和丸」(かつてはイタリア船で、9,655トン、乗客定員1,068名。大和丸と名付けられ日本の郵便船となり、 基隆と神戸の間に就航した。)
「臺灣航路案内」表(1933年(昭和8))
「臺灣航路案内」裏(1933年(昭和8))
金沢湯涌夢二館特別展チラシ(2019年10月)

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