第7回「夢二がたどった台北への道」

前述のとおり、基隆港に着いた夢二は待ち構えていた記者の取材に対し、ヒトラーに追い出されわけではなく、ドイツの芸術の発展性に魅力をなくしたと答えていました。
実際のところ、終盤では特にひどい金欠のうえ極度の体調不良になっていた欧州の旅でしたが、取材でこれに言及することはなく、記者の方も夢二の米欧の旅の状況について何も知らなかったようです。一時は夢二が行方不明になっているといった記事が読売新聞に掲載されています。(現在、竹久夢二美術館で開催中の企画展「夢二と読売新聞」にその記事資料が展示されています)こうしてみると、夢二は外国からいくつかの旅行記的な投稿はしているものの、帰国後も夢二は正式な会見や発表はしていなかったようです。帰国の挨拶状は出していましたが、次男の不二彦の手記にも、寝たり起きたり、ときどき寄稿したりしていたといった帰国後の夢二が書かれています。

さて、基隆港から台北までの移動ですが、実はこれが謎になっています。距離にして約30㎞、現在は高速道路で40分、電車で1時間ほどで移動可能ですが、この当時は台北・基隆間の鉄道を使うか山越えの道路を自動車で行く方法が使われていたようです。
ところが、夢二が台北に行った移動手段がどこにも記録に残っておらず、謎のままとなっているのです。港のバースまで鉄道の線路が伸びていたので、映画「KANO」のワンシ-ンのようにそのまま列車に乗れば、自動車で山越えするよりもずっと早く台北に行かれると思うのですが、東方文化協会の会長である河瀬蘇北が来るということになると、台湾支部長などが自動車で迎えに来て、ホテルまでドア・ツー・ドアのサービスをする可能性も否定できません。山越えをするため時間はかかりますが、この方が接遇の観点からみて可能性が高いように思われます。
さらに、夢二訪台時の唯一の直筆の記録資料と思えるエッセイ「台湾の印象」(1933年11月14日「台湾日日新報」)に、基隆への帰路はシボレーに乗ったが山中で故障して船に乗り遅れたと書いていることからも、到着時は迎えの自動車で台北に向かったという方が有力だと思われます。

当時の台北市は、1885年(明治28)の日本統治開始以来38年を経過していて、特に日本人の多く住む城内はかなり整備されていました。しかも、夢二訪台の2年後(1935年)には「台湾博覧会」が予定されており、当時の状況に関する多くの資料である写真や地図が残っているので、その繁栄ぶりがよく分かります。(写真参照)
(注)城内:台北は四方を台北城の城壁に囲 まれていたが、日本統治時代、ここは「城内」と呼ばれ、各種行政機関 が設置されたほか、内地人と名乗っ た日本本土出身者たちが多く暮らしていた。

これにより、台北市に着いた夢二がどんな光景を目にしたかをかなり正確に想像することができます。非常に驚いたか、それとも東京と同じようなビルが建ち並んでいるので違和感がなく気にしなかったのか、この辺が気になりますが、前出のエッセイで、「船に乗り遅れたので台湾について考える時間ができた」といったことを書いていることから、到着時は台湾の状況について何も関心を持っていなかったというのが本当のところかもしれません。
そして、台湾について対して関心を持たなかったであろう夢二を迎えたのが、当時の台湾の最高級ホテル「鉄道ホテル」でした。(写真参照)その壮麗な姿からみると、このホテルは当時大流行していた様式の日本の建築物そのものであり、やはり夢二は違和感を全く感じないまま部屋に入ったということなのでしょうか。
次回は、このホテルの解説とここで夢二に起こった珍事について紹介します。(つづく)

台北駅前から国立台湾博物館を望む館前通り(絵葉書)
日本統治下の台北(「台湾歴史地図散歩」)
「鉄道ホテル」(絵葉書)
「鉄道ホテル」模型(国立台湾博物館鉄道部パーク)


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