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第14回「夢二展の新聞講評を書いた男」
いろいろな悪い条件が重なり、警察会館での夢二展ではあまり絵が売れなかったようですが、最終日11月5日の「台湾日日新報」には、次のような記事が掲載されています。
「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会
久々で竹久夢二君の繪を観る。時代の潮に姿を没したかに思はれてはゐたが、此の畫家が持つ昔ながらの「人間情熱」は、まだ作品の上にまざまざと活きている。否或る點で一部洗鍛され老熟して来たかの観もあり、相當に面白く観られた。油絵は柄でないようだ。多くの日本畫的手法による半折の美人畫には、藝術作品として卓抜さがドレ程あるかは疑問としても、人間の持つ情熱を描き出さんとして愈々刻苦してゐる夢二張りの長所は十分に認められる。
「萬里脚」などは小品ながら佳い。風景を畫いても此畫家は自分の情熱を畫面にさらけ出して楽しんでゐるといふ形ちだ。「榛名山風物」その他数作なぞはソレで相當に書けて来た書のうま味と共に南畫的情趣の世界を別に展開して来た。そして俳畫境にも一展開を見せてゐる。鋭い天分で藝術界を一貫する工作は無いとしても、情熱の動きをコレほど如實に傳へて呉る畫家も然う多くは無いといふところに、夢二君の存在価値は依然として認めてよいと思ふ。(鷗汀)」
なかなか好意的に好評をしてくれていますが、最終日ではなく、もっと早めに掲載してほしかった感がありますね。
しかし、この展示されたと言われる絵がいまだに行方不明というのはとても残念ですが、ここでもタイトルだけの紹介になっており絵の写真はないようなので、いまだに謎のままとなっています。人間情熱ぶりがどんなふうに絵に表れているのかとても気になります。特に、有島生馬との共作の屏風。
実は、これを書いた「鷗汀」というのは、実は、台湾「台湾日日新報」の編集主幹尾崎秀真(ほづま)です。彼は夢二展が始まる11月3日の夜に開催された講演会の司会を務めています。
尾崎秀真という人物に関する説明が、台湾美術研究家の森美根子氏により「漢詩や篆刻が育んだ尾崎秀真と台湾人の友情」と題して次のように説明されているので紹介します。(「nippon.com」より)
台湾近代美術史に数々の業績を残した尾崎秀真
台湾で発行された近代美術史の本を見ると、尾崎秀真(ほつま)の名前がたびたび登場し、台湾に残した彼の業績の数々が発表されている。そもそも尾崎秀真と台湾との縁は、1901年4月、彼が、医師で政治家も務めた後藤新平の招きで台湾日日新報社の記者になったことに始まる。籾山衣洲(もみやま・いしょう)の後任として同紙の漢文版主筆となったのはそれから3年後のことだったが、総督府台湾史料編さん事業に携わった1922年以降、史跡名勝天然記念物調査会の調査委員や台湾博物館協会の理事を務めるなど、在台45年、ジャーナリストとしてだけではなく、歴史、考古学の分野でも多くの業績を残している。
これらは台湾の研究者の間では周知の事実となっているが、肝心の日本では秀真はゾルゲ事件(ソ連のスパイ事件、1941-42)に関与した尾崎秀実(ほつみ)の父として知られている程度で、研究者でも彼の台湾における業績、ましてや彼が詩書画にも精通し、篆刻(てんこく)の分野でもさまざまな活動をしていたという事実を知っている人は極めて少ない。
資料(※)によると、秀真は18歳のとき、親の期待に応えるべく故郷の美濃(現在の岐阜県)から上京、東京の病院に薬局生として住み込み、私立の医学校、済生学舎に通っている。その後、『医界時報』という医者向けの新聞の編集に携わるようになって、当時内務省衛生局長だった後藤と交わるが、この出会いが後に彼の人生を大きく左右することになる。
日清戦争で『医界時報』が休刊になると、小学生の頃から漢詩漢文に親しみ、もともと文学に強い憧れを抱いていた秀真の詩作への思いが再燃した。親の期待を知りつつも医学の道を中途で捨て、1896年に創刊された雑誌『新少年』の編集部に入り、作家・鹿島桜巷(おうこう)らと共に選者の一人となった。この頃の秀真は、依田学海(がっかい)に漢詩を、渡辺重石丸(いかりまろ)に国学を、高崎正風(まさかぜ)に和歌をそれぞれ学び、ひたすら文学の世界にふけったと伝えられている。
1897年3月、秀真は『新少年』の編集主幹となり「白水」と号したが、篆刻の世界に足を踏み入れたのも、どうやらこの頃のようだ。篆刻印は、書画の完成に際してサインとして用いるが、漢詩人であった彼がその魅力に引かれていったのは、むしろ当然の成り行きだったのかもしれない。
(※) 尾崎秀真「秀実の生い立ち」『回想の尾崎秀実』尾崎秀樹編、1979年、勁草書房
一説には予定していた講演者の一人が来れず、秀真が講演をしたという説もありますが、ただの司会者ではなかったことは確かのようです。
いずれにしても、この時は東方文化協会の川瀬蘇北理事長と夢二の講演が行われました。これについては次回紹介することとします。(つづく)
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